『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』本当に格好悪い男たち
「現代アメリカ最高の映画作家」といえばマーティン・スコセッシだ。日本だとスピルバーグやイーストウッドのほうが優勢な感じだ(し比べるものでもない)が、母国における「マーティ愛」の特別なところは、若者まで巻き込んだ文化的会話を創造しつづけている点だ。新作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023年)初日における北米観客は約半分が35歳未満。渋き巨匠大作としては驚異的だ。
「カリスマ悪党」の創造主
スコセッシの魅力はアウトロー美学だ。かつてオルタナティブだった「ストリート」作風、スタイリッシュで残忍な暴力、国家アメリカの根源に通ずる男性中心の共同体、カトリック的な問いかけ……ここから生まれるキャラクターこそ、勧善懲悪によって完封されない/されることすら赦されない脆さと愛嬌を持ちあわせる罪人(つみびと)である。
この魅惑的な罪人が「カリスマ悪党」として受け継がれていったことが、スコセッシの若者人気の原動力だろう。今でいう「非モテ弱者男性」が暴力犯罪に駆り立てられる『タクシードライバー』(1976年)は大統領暗殺未遂で模範されるほどの影響力を放ち、スコセッシは映画卒業を考えるまで追いつめられた(当人は主人公を「神のために殉死したがるが失敗する聖人」として描いていたらしい)。この代表作は『グランド・セフト・オートIII』(1999年)や『ナイトクローラー』(2014年)といったアウトロー劇で参照されつづけている。平成生まれのファンを惹きつけた『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013年)の場合、実在犯罪者の主人公が「アルファ雄」に憧れる男子のアイコンと化した。近作だと、スコセッシ作品をなぞって「インセル」界隈にまつりあげられた『ジョーカー』(2019年)の存在も大きい。つまるところ、タイラー・ダーデンからケンダル・ロイに至るまで「(皮肉にも)憧れのカリスマとして共振と熱狂を買う白人男性の悪党キャラ」って、スコセッシがひとつの源流になっているのではないか。
※以下ネタバレ
ディカプリオ史上もっとも格好悪い主人公
最新作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は驚くべきものだ。この映画では、御年80歳となったスコセッシが自身の「カリスマ悪党」作風を完膚なきまでに潰している。3.5時間の長尺をつかって、観客に胸糞悪い醜悪さを観客に味あわせていく。ミステリ調だった同名原作とは対極に、映画は冒頭で事件の大局、つまり犯人がわかる。視聴者に知らせられないのは「境界」だ。主人公のアーネストは、どこまで、そしていつから叔父の計画を理解してたのか?
アーネストは、きっとレオナルド・ディカプリオ史上もっとも格好悪いキャラだ。傍観者のように見えた彼の「悪行」は少しずつ明かされていくし、強盗もはたらいていたのだから金に汚いことはたしかである。一方でたしかにモリーを愛しているのだから、捜査官の言うとおり叔父より妻子を選んだほうがよっぽど幸せだった。結局のところ、彼が注射についてどれくらい知っていたのか、どう捉えていたかは明かされない。ふりかえれば『ミッドサマー』(2019年)を参照した第一幕のスロウペース、雄大な絶景のなか不安がでて消えていくホラー演出は、ものごとや隣人、さらに自分の心との直面から逃げつづける主人公の心境のようでもある。アーネストには、とにかく背骨(確固たる自分の考え)が無いのだ。「ものごとの深刻さを察したが考えることを避けて流されていく」弱き者だが、注射が安全だと信じるほどの愚者でもない。監督から『沈黙 -サイレンス-』(2016年)のキチジローに近いと説かれたものの、やっていることの悪辣さを考えれば、大作の主人公にまったく向かないキャラである(自己主張なくやられっぱなしな「ドアマット」キャラがかなり嫌われる米国だと特段)。
邪悪なだけの邪悪
この映画、大犯罪を行う悪役サイドが徹底的に格好良くない。まず計画そのものがかなり杜撰で、加担者たちが共有できていたのは人種的な優越心とそれが成就する予感くらいだった。何十人も殺しつづけられた理由は「インディアンの死は犬の命よりも軽い」からまともな捜査がなされない環境だけであるから、外部から捜査されるとすぐお縄になる(ように見せられている)。極めつけはブレンダン・フレイザーが大袈裟に演じる弁護人だ。白人陣営の傲慢と無能の戯画の域で、もはや馬鹿らしくなってくる。映画の主題は「なぜ主人公は愛する妻に凶行をはたらいたのか」らしいが、長いものに巻かれようとする愚かな男が身をまかせた「長いもの」が構造的人種差別だったという話ではないか。
ヘイルだけはある種超越した存在で、悪の化身そのものだ。ただし、最初から主犯だと明かされているからミステリ的スリルはもたらさないし、計画自体はお粗末な人種差別主義だよりでしかないからある種の悪徳の華もない。オセージ族にとってのヘイルは「死をもたらすフクロウ」のような様相をしているが、その鳥をふくめた彼らの超自然的な信仰描写の美しさと対比させれば、その差は明らかだ。邪悪とはただ邪悪なだけである。
『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』に「悪党が憧れられる隙」はほとんどない。報告された妻子爆殺計画がカットされたアーネストは「大悪人」の看板すら失っているし「白き救世主(マイノリティを救う正義の白人)」になりえたビルや捜査官の特徴は削がれている。キャリアをとおして魅惑的な罪人を描いてきたスコセッシは、歴史的悲劇を起こした悪党どもの醜さを突きつけた。3.5時間ものあいだ胸糞悪さを浴びせられても尚あの白人たちに憧れを抱く観客なんてほとんどいないだろう。
巨匠の決着
エピローグのオール白人キャストによるスポンサーつき実録犯罪ラジオ劇は、ヘイルの言葉が真実だったことを補足している。先住民たちの悲劇は、すぐさま忘れ去られ、マジョリティたちの娯楽としていいように使われていった。監督の登場は、この映画すらラジオ劇の延長線上にある宣言のようなものだ。つまり『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』とは、オセージ族の悲劇にまつわる白人の物語りで、その域を越えることはない。もちろんリリー・グラッドストーン演じるモリーは内心描写を唯一与えられた「映画のハート」だが、これが白人中心のクライムドラマであることに変わりはない。
公開前、オセージ当事者による批判的称賛が注目されたが、彼はほとんど監督と同じことを言っていた。マーティン・スコセッシは、マーティン・スコセッシが語れる物語を語ったに過ぎない。彼なりの敬意をはらいながら、歴史的惨劇を起こした加害者たちの下劣さを暴くことで白人アウトロー作家としての決着をつけたのだ。
というわけで、この映画、ディカプリオが言ったとおり「語りたいことがありすぎて」3.5時間もの長さになっている。スローペースやホラー調のほか、オセージ語字幕のありなしの切り替えなど、実験的演出もちりばめられている。なかでも最後のカメオは「作家が語りたいこと」そのものすぎて、英語圏での熱烈な肯定は「マーティ愛」の作用もやや感じるのだのだが、しかし真摯さを感じたのもたしかで、自分の感想はまださだまっていない。結局、巨匠本人の言葉が一番腑に落ちるかもしれない。