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『落下の解剖学』 読者の罪と作家の業

 仏セザール賞から米アカデミー賞にまで旋風を起こした『転落の解剖学』に捧げられた賛辞は、とにもかくにも「時代精神」である。ジェンダーやスキャンダラス裁判といった「今の時代そのもの」な時事性が国境を突き抜けたのだ。日本も共感の範疇たりえるだろうが、個人的にもっとも大きなテーマに感じたのは、これまた日本でも議論となっている作家と読者の関係、そして「現実を侵す創作」論である。

【以下ネタバレ】

カップルの解剖

 『落下の解剖学』はミステリではない。ある意味その反対で、真実が決してわからないことこそ本懐なのだ。つまり、夫の死が自殺なのか、妻が追い込んだ結果の自死なのか、それとも他殺や事故なのかは知らされない。唯一の証人たる息子がほとんど盲目であることは、彼と参審員の分身とされた観客が「決して真実を視ることができないこと」を暗喩している。そして、すべてを知っているものの喋ることができぬ犬が「決して明かされぬ真実」のメタファーである。
 ジュスティーヌ・トリエ監督が第一としたのは、カップル関係の複雑さだった。

この家庭では、幼い息子を持つ両親が毎日課題に直面しています。夫婦で同じ技巧を用いて、同じ野心、つまりともに小説家になろうとしている。お互いの夢の実現は難しい事実が、家庭内の調整を邪魔しているのです。さらに、父親のほうは、女性たる妻のが自分より成功したことに苛立っている

Justine Triet on her film 'Anatomy of a Fall' : NPR

それでも、夫婦はまだ話し合おうとしていたので、私としてはまだ愛しあってることになるのですが、問題は消えることのない重荷です。2人のバランスを崩したのは息子の事故でした

The Problem of the Too-Truthful Woman | The New Yorker

 このカップルの特色は、ステレオタイプとは逆であることだ。例の口論では、アマチュア作家の夫が「君に合わせつづけて自分の時間ばかり奪われている」と憤って家事育児の配分が不平等だと訴える。売れっ子作家として仕事につぎこむ妻は相手の気持ちを理解できていないようで「あなたの立場でも私は執筆できる」と豪語しながら負担を増やす気はさなそうである。これ、多くのケースでは男女逆だろう。

「それってあなたの感想ですよね」

 「普通」じゃないジェンダーバランスは、裁判に利用されていく。「可哀想な妻」を演じようともせず複数の言語をあやつるサンドラが「夫を犠牲にして女と不倫した罪深い女」として攻撃されていったのは明らか。ジェンダーバイアスのようなものはあちらこちらにある。男性精神科医は守秘義務をやぶる断定をしすぎだし「夫婦喧嘩の原因は不倫」とする証言なんて「どう聞いてもほかの理由もあっただろう」となる。埒があかず動機の想像大会に向かった裁判劇は、よもや「それってあなたの感想ですよね(byひろゆき)」合戦だ。

「非米国の国際映画」として可能な法廷劇でもある。英米式当事者主義ではなくラテン式権威主義法廷のもと証言の許容範囲が広いアナーキーバイブが売り。舞台が米国だったら多くの観客が非現実的に思えて没入が削がれるだろう

 提示される情報はまったく足りていない。では、彼女を信じるか? 信じないのか? この重荷を背負わされるのが息子のダニエルだ。

「何かを判断するのに材料が足りないと判断のしようがない だから決めるしかない 分かる? たとえ疑いがあっても一方に決めるのよ 判断しかねる選択肢が2つある場合1つを選ばないと」
「無理にでもってこと?」
「そうよ ある意味では」
「はっきりと確信できなくても確信したフリを?」
「違う 心を決めるの フリじゃない」

 『落下の解剖学』で浮かび上がるのは、断片的な情報から真実を断じようとする滑稽さである。サンドラが訴えたように、カップルの複雑な真相など外野にわかるはずがないのだ。本作が「時代精神」として喝采された理由にしても、今日の社会で断片的な情報による決めつけがあふれているように見えるためだろう。MeToo運動以後の有名人にまつわる裁判やスキャンダルは言わずもがな。根本的には、SNSが「断片の情報で真相はわからない」と認識させる機会を増やした。ほとんどの人がInstagramやTikTokで流布したい自分のイメージ、つまり「外向けの物語」をつむいでいる。それら情報の受け手として「外向けの物語が真実とはかぎらない」とするリテラシーも共有されきっている。
 ただし、本作はそこで終わらない。刑事裁判の暴走を通して、断片的な情報しか無いのになにかしらの答えが選ばれなければいけない社会の理を提示していくのだ。判決は真実ではなく、参審員が信じたかった物語のすぎない。だからサンドラは終われた気がしない。法的に無罪とされたことで疑惑が晴れたわけではないのだ。世間どころか、息子にすらまだ疑われてるかもしれない……。
 もっともユニークなのは、真実は決してわからないと告げるこの映画そのものが真実を探りたくなる魅力を放っていることかもしれない。結局のところ、我々観客は、好奇心を抱くことをやめられない。

オートフィクションの実践

息子の証言とラストシーンでサミュエルの存在と重ねられるスヌープは、映画の最初でボールを階段下に落としていた。この「ステアケース」演出は、夫がみずから身を投げたことをほのめかしているのかもしれない

 ここからは野暮なのだが、考察をしてみよう。元々プロットツイスト式ミステリにするつもりだっただけあって答えはちゃんとあるようで、監督いわく10年経ったら明かすかもしれないとのこと。
 『落下の解剖学』のテーマは「創作と実生活の境界線」である。冒頭のインタビューからそれを問われるし、TVで「作家が作品どおりだったら面白いから真実などどうでもいい」とまで言われてしまう。そして、サンドラとサミュエルはともにオートフィクション技巧を駆使する書き手だった。

「オートフィクション」とは、一般に、作者と同名の(または明らかに作者と重なる経歴や特徴をもつ)語り手が登場するが、ノンフィクションではなくあくまでフィクションとして提示される小説を指す。エッセイや回想録(メモワール)のような佇まいの作品も少なくないが、、それでもやはり小説(フィクション)としか呼び得ないもの

〈白水社 夏のガイブン祭り2023〉オートフィクションセレクト - 白水社

 監督が語ったように、二人そろって実生活をインスピレーションとする創作をしていた事実が夫婦間機能不全の障壁となっていた。妻は両親どころか息子までネタにしたし、夫は家庭内の会話を録音し記録していた。
 ここを活かして考えてみよう──夫婦は、実生活でオートフィクションを実践していたのではないか? つまり、サミュエルの執筆のために、夫婦でシナリオ構想の実演を行っていたのだ。息子が「あそこまで激しい喧嘩は聞いたことがない」と驚いた口論にしても創作のための演技で、DVも台本。もしくは、素人真似のメソッド演技をするうちに隠していた本音があふれていって制御不能になったのかもしれない。二人の実演が「不審死」場面に至ったのが映画冒頭。サミュエルの構想において、インタビュー中の大音量音楽はアリバイ工作だった。作中の夫はあの時点で死んでいたが、大学生に証言させるため、記憶に残るかたちで妻が死者の活動を演出したのである。もしかしたら親たちはごっこ遊びに子どもまで巻き込んでいたのかもしれない。洗ったばかりの犬をまともに乾かさず雪山散歩に連れてくなんてちょっと変だが、親がそうするよう言ったのかもしれない。構想実演のため息子用のテープの位置も変え、外に聞こえるよう夫婦の会話をスピーカーで流していたとしたら、ダニエルの証言の矛盾も解決する。

メモから現場検証まで、何度もシミュレーションされる事故の構想

 夫婦の共同作業のなか、サミュエルは本当に死んでしまった。想像するなら、学生を帰らせて息子を散歩に行かせたあと、夫婦で「犯行」の演技を行った。そのあと一人残された夫は、薬を絶ったことによる危うい判断力によって小説につかう窓を調べていたら身をのりだしすぎて落下……あるいは、躁状態によって本当に構想を実践してしまった。裁判中に言われたとおり「構想だけで終わる男」にふさわしい末路かのように。対して、サンドラは本当に夫を殺していなかったし、最初に語ったとおり「彼が息子の前で死ぬなんてありえない」と考えた。しかし、家族をネタにした犯罪小説のシミュレーションを夫婦でやっていたなんて異様すぎるため、背景事情の隠蔽を選択した。たとえば、腕の打撲痕が「創作のために自分でテーブルにぶつけていった」のだったとしたら……夫の薬中断と精神科医への攻撃的態度すら夫婦で合意した創作実演だったとしたら……裁判にもキャリアにも不利になる。
 このシナリオなら『落下の解剖学』の「創作と実生活の境界線」テーマは綺麗な弧を描く。観客の分身である息子と参審員が見せられていた「小説のような不審死」は作家夫婦の構想である。こうして、断片情報で決めつけようとする不毛さ、さらに創作と作家を一緒くたにしようとする読者の罪がより際立つ。これに連なるのが「フィクションで現実を壊す」と豪語しながら創作に実生活を侵食されてしまった作家の業である。サミュエルの死をまねいたのは、夫婦双方が持っていた作家としてのエゴであり欲求だ。

シャイニング

日本で例えるなら、エッセイ漫画家の夫婦がネタのために子どもまで巻き込んだ家庭崩壊

 オチとしては、両親に巻き込まれた息子が結末をつむいだ。犬を病院につれていった実体験と裁判で聞いた情報をマテリアルにし、参審員が信じたがるオートフィクションを創作したのだ。もし夫婦が本当に構想を共作していたのなら、サンドラの「終われた気がしない」感覚は二重に皮肉となる。
 ひとつ余談がある。「あまりにスタンリー・キューブリックっぽいから」音楽演出を変更したという本作が顕著に意識しているのは同監督作『シャイニング』。息子の名前がダニエルで、格好も似ている。両作ともに、大黒柱になれない不安を抱える夫が雪山の宿泊施設に移って小説のネタ探しに夢中になり、街に戻りたがっている妻を困らせる。さらなるメタネタとして、映画『シャイニング』は原作者を怒らせた翻案だった。スティーブン・キングの小説において、弱さにつけこまれていった父親は、妻子を救うため己を犠牲にしてホテルを破壊した。キューブリック版だと、狂気を暴走させて息子を襲い、雪のなかで凍死して永遠にホテルに棲まうような筋に変えられている。もしかしたら『落下の解剖学』サミュエルの構想においても、彼の分身は「妻子のために死んだ父親」だったのかもしれない。しかし、みずから巻き込んでいった息子の手によって「子どもに残酷なことを言って息子の前で死んだ父親」へと書き換えられたのだ。


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