『オッペンハイマー』時系列+実話
複雑な構成を持つ『オッペンハイマー』を時系列順に整理したメモ+後日談。個人用に簡単なリサーチをしただけなので、誤記があったら修正or記事します。
【以下、ネタバレ】
1924-1926年:ケンブリッジ大学院
ユダヤ移民家系に生まれたJ・ロバート・オッペンハイマー〈キリアン・マーフィー〉は、ハーバード大学を3年で卒業したのち、イギリスのケンブリッジ大学院に通った。うつ状態となってチューターに毒物をいれた林檎を食べさせようとしたのも実話とされる。現実では両親の速攻介入によって退学はまぬがれたものの、精神科受診が義務づけられた。後年、原爆投下の悪影響を指摘した初期の研究者こそ、毒を盛られたパトリック・ブラケット〈ジェームズ・ダーシー〉である。
1926-1943年:留学&准教授
ドイツ留学していき、物理学や量子学で名を馳せていった。のちにドイツの核開発に参加することになるヴェルナー・ハイゼンベルク〈マティアス・シュヴァイクホーファー〉と出会う。その後、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとった。
1936-1940年:二股ロマンス
将来の精神科医であるジーン・タトロック〈フローレンス・ピュー〉と熱愛。しかし、プロポーズを何度も断る彼女は、姿を消してはあわわれて恋人を罵倒する難しい人物だったらしい。1939年、キティことキャサリン〈エミリー・ブラント〉と出逢い、不倫の果て翌年に結婚。オッペンハイマーの周囲は「本命はジーン」「妊娠がなければ結婚しなかった」と考えたりしていたらしく、義理妹にいたってはキティを「真の邪悪」と言うほど嫌っていた。
ただし、現実のオッペンハイマーが子どもを預けたのはマンハッタン計画中。今で言う産後うつになったキティが長男と帰省したため、寝る暇もなかった夫が長女を妻の友人夫婦に預け、数ヶ月後「愛せないから養子にもらってくれないか」とまで持ちかけたと言われている。また、キティのアルコール依存が表面化したのは、うまがあわなかった戦後のプリンストン上流生活のころらしい。
1942-1945 年:マンハッタン計画
レスリー・グローブス〈マット・デイモン〉によってディレクターに任命され、先住民が墓地として活用していたロスアラモスの男子校跡地を国が押収するかたちで基地建設。
現実のオッペンハイマーが原爆計画についてアルバート・アインシュタイン〈トム・コンティ〉にたずねた痕跡はない。MITのカール・T・コンプトン教授には以下のように返答されていた。「人類滅亡の危険を犯すくらいならナチスの奴隷になったほうがマシだ」。
1944年:ジーン死去
不倫相手でもあったジーンが亡くなる。最後に二人が会ったのは1〜2年前とされ、別れを切り出したのは女性側だったと伝えられている。自殺とされたが、マンハッタン計画情報漏えいを防ぐための暗殺という陰謀論もある。映画では主人公の想像として両方の死因が挿入される。
1945年:トリニティテスト&投下
7月16日にトリニティテスト。悪天候による延期は事実だが、実際の現場は映画よりも冷静だったらしい。実験が成功したとき、映画のオッペンハイマーは有名な一説「我は死なり」を唱えるが、現実は「成功した/うまくいった('It worked')」に近い言葉。
実験場周辺には50万人ものヒスパニックや先住民が住んでおり、機密を徹底したがった国側は彼らに「爆発は弾薬と花火」と嘘をつき、健康被害を否定した。住民のあいだで乳児死亡が急増し、数十年にわたり癌や心臓病をわずらっていた。「風下の民」を名乗る地域住民らは2023年現在も国から謝罪と補償を受けていない。
米軍との投下会議。
8月6日、広島に「リトルボーイ」投下。9日、長崎に「ファットマン」投下。
終戦後の10月、オッペンハイマーがトルーマン大統領〈ゲイリー・オールドマン〉を怒らせたのも実話。
オッペンハイマーは戦後も政界で影響力を持ちながら「爆弾は悪だった」と発信するなどして反核軍拡運動も展開していった。
1947年:プリンストン大学
プリンストン大学新プログラムの所長に招致され、銀行家であった理事長ルイス・ストローズ〈ロバート・ダウニー・Jr〉との交流がはじまる。現実には、オッペンハイマーのせいでストローズの家が建てられなくなるなど色々いさかいがあったらしい。
オッペンハイマーとアインシュタインに交流があったことは確かだが、池での会話は創作とされる。
1949年:スパイ疑惑
6月、放射性同位元素輸出に関する意見の相違により、議会でオッペンハイマーがストローズを侮辱し怒らせる。
9月、ソ連の原爆実験を受けて原子力委員会が会合。マネージャーのケネス・ニコルズ〈デイン・デハーン〉がオッペンハイマーに対ソ連情報漏洩の疑いをかける。スパイだったのはドイツ人のクラウス・フックス〈クリストファー・デナム〉、くわえて三人。ただし、当局によるオッペンハイマー監視は、共産主義新聞を購読していた20代後半の1930年代後半よりはじまっていた。
1950年:「水爆の父」
オッペンハイマーと意見をわかっていたエドワード・テラー〈ベニー・サフディ〉が「スーパー」爆弾開発指揮官となり、将来の「水爆の父」に。約2年後、原爆「ファットマン」の450倍の威力と報告された水爆を製造した。また、トルーマンの承認により、ストローズも核軍拡姿勢を強めた。
1953-1954年:マッカーシズム&安全保障聴聞会
オッペンハイマーが国防関連委員に就任したことを知ったストローズは、ウィリアム・ボーデン〈デヴィッド・ダストマルチャン〉に秘密書類をわたした。くわえてテラーも密告。ボーデン書簡で「安全保障危機をもたらす共産主義者」とされたオッペンハイマーは、アイゼンハワー大統領によって機密情報アクセス権限を制限された。
ロジャー・ロブ〈ジェイソン・クラーク〉らによる機密保持についての審査開始。友人経由のソ連スパイ疑惑を報告せず嘘をついたことを問題視され、オッペンハイマーの機密保持情報アクセス権は取り消され、政府との関係が終了。
プリンストン大学に戻ったオッペンハイマーは「海外で歓迎される」となぐさめた友人に対し「私はまだこの国を愛してしまっている」と涙した。一年の数ヶ月を米領セントジョン島のビーチで妻子とともに過ごすようになった。
1959年:ストローズ指名公聴会
アイゼンハワー大統領に指名された米国商務長官の是非を決める公聴会。デヴィッド・ヒル〈ラミ・マレック〉による証言は実話だが、ストローズ失脚の決め手となったのは政争。対立していたニューメキシコ州上院議員クリントン・アンダーソンによる裏工作が大いにはたらいて僅差の否認に至った。
1960年:訪日
政府に介入されないかたちで科学と人道を解決するための世界芸術科学アカデミーをアインシュタイン、マンハッタン計画参加者と設立。
オッペンハイマーは東京と大阪で講演した。「知恵の樹とアダム、そしてプロメテウスの伝説が示すのは、人間の生活で当然となっている指針を侵す危険性である」。広島と長崎に足を踏み入れることはなかった。
1963年:エンリコ・フェルミ賞
『オッペンハイマー』唯一の未来へのタイムジャンプであり、劇中時系列としては終着点。ストローズ指名公聴会で否決を投じたケネディ大統領より授与される予定だったが、暗殺事件が起こり、リンドン・ジョンソンより授けられた。映画どおり多くの元同僚があつまり、キティはテラーの握手を拒否した。
旧友を裏切ったことで科学界で糾弾されていったテラーだが、気候変動問題に警鐘を鳴らした初期の科学者となり、2003年に逝去。死の直前に原爆投下への後悔について語っている。
1965年:「我は死なり」
NBCドキュメンタリーに出演したオッペンハイマーが、映画に二度登場する有名な一説を明かした。「我々は世界を変えてしまうことをわかっていました。笑い飛ばす者もいたし、涙を流すものもいたが、多くは沈黙していました。私が思い出したのはヒンドゥー経典『バガヴァッド・ギーター』の一説です。ヴィシュヌは王子に務めを果たすよう説き、訴えかけるため多腕の姿となって言い放った。『我は死なり、世界の破壊者なり』。我々は皆それぞれ、このように考えていたのでしょう」。
1967年:逝去
咽頭がんにより逝去。公聴会での失墜を払拭できないまま、死の前年までプリンストンで働いていた。1972年にキティ逝去。1977年、島の土地を受け継いだ娘が自殺し、ビーチは公共公園となった。
2022年:停止解除
米エネルギー長官がオッペンハイマーの機密情報アクセス権拒否を無効とし、当時の審査プロセスの不備を認めた。
2023年:映画公開
映画『オッペンハイマー』は9.5億ドルもの興行収入を達成し『ボヘミアン・ラプソディ』を超えてボックスオフィス史上最大の伝記映画となった。北米版ホームリリースには日本人被爆者インタビューをふくむNBCドキュメンタリー『To End All War: Oppenheimer and the Atomic Bomb』が収録されている。翌年に日本公開。
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