自由の代償 / 今までの事とこれからの事 vol.2
こんにちは
今日は前々回に書いたvol.1の
続きを書いていこうと思う
いつも長くなっちゃって申し訳ないけど
時間がある時にでも読んでみてね。
俺は高校を1年生の1学期で辞めた後
約1ヶ月ほどのニート期間を経て
建設業の世界に入る事になった
いわきには昔から工場が多く
震災の影響もあり建設業が盛んだった為
野球をやっていなければ
俺自身もその道を辿っていただろうし
地元の先輩達は中卒の人達がほとんどで
皆んな当たり前に建設業をやっていたから
そこに躊躇いや戸惑いは無かった。
寧ろ、先輩方の作業着姿がカッコ良くて
憧れていた節もあったし
あの頃の俺にはそれが物凄く大人に見えて
早く建設業をやりたいと思っていたから
働ける事が楽しみだった
だが、そこで社会の厳しさと言う
逃れられない現実を知る事となる。
建設業は朝が早くて帰りは遅いし
完全な肉体労働だから
体力もそれなりに必要になる
そして、力仕事をこなす為の根性や忍耐も
あの頃は確か基本的に
朝6時頃に家を出て
8時から仕事が始まり
17時に終わった後
18時とか19時くらいに帰ってくる
そんなスケジュールだったと記憶している。
勿論、他の職種も大変だし
楽な仕事なんて無い
というのを大前提で書くが
建設業というのは
毎日の様に怪我や死と隣り合わせの危険な作業で
夏なんかは熱中症で倒れる人も沢山居るし
この時代にそんな事やって大丈夫なの?
って思う事が多々あるくらい
厳しく辛い仕事だと思う
それなのに
中卒やヤンチャな方が多く
勉強なんて出来なくても
ある程度補える職種だからか
とても見合った給料なんて貰えず
15.6歳の俺の日当は当時6000円だった。
それでも、15歳の俺からしたら
給料日になると10万円以上が一気に入るから
当然夜中まで遊んで
次の日仮病で休むなんて事も少なくは無かった
あの頃は若かったし
ただ遊ぶ事しか考えていなかった
でもその結果、休み過ぎた月は
10万円すら超えない時もあったりして
こんな辛い事毎日やってんのに
これしか貰えないのかって
落胆した事もあったし
でもそれ以上に
お金を稼ぐ大変さってモノを
同年代の人達よりも一足先に学ぶ事が出来た
それに関しては物凄く感謝しているし
だからこそ、今でも建設業の方達の事は
心の底からRespectしている。
中学の同級生や世間の同年代達が
制服を着て学校に向かって
放課後まで勉強や部活に励んでいる中
俺は作業着で現場に向かい
ヘルメットを被って汗水垂らし
お金を稼いでいた
同年代の奴らよりも
大人になった様な気分になったし
自由になれた気がして優越感に浸ったりもした
それでも、仕事終わりに作業着のまま
仲間達と駅に溜まっていて
中学の同級生達が部活終わりに
制服姿で電車から降りて来てすれ違うと
何とも言えない虚しさに駆られる事もあった。
そんな毎日を過ごしている中で
同級生の仲間達が
徐々に誕生日を迎え16歳になり
中免を取って単車に乗る様になって行く
俺達は中学生の頃から
16歳になったら皆んなで単車に乗ろう
と話していたから
それは必然の事だったし
俺達の地元、いわき市の植田町って所は
町も人も昭和の風情が漂っていて
情に厚くルールよりマナーを重んじる人達が多く
礼儀や上下関係などに関しては
時には先輩方にしばかれながら
ガキの頃にストリートで身体に叩き込まれた。
だがその分、小さい町だからこそ
友達の親の世代までが縦で繋がっていて
町で会うと先輩と何ら変わらなかったし
あいつは誰々の息子だとか娘だとかで
どんだけヤンチャをしても
大人に詰められた記憶なんてほとんど無いし
むしろ、そーゆう時に守ってくれたり
生き方や切り抜け方を教えてくれたりと
そんな愛に溢れた人達ばかりだった。
そんな町だからこそ
昭和のカルチャーが色濃く根付いていて
暴走族やヤクザやスナック
俺達の平成真っ只中の時代でも
皆んな肩で風を切りながら
セカバンを小脇に抱え
短ランボンタンで
頭には剃り込みを入れるなんてのが
俺達の周りじゃ普通だった。
そーゆう環境だったからこそ
当時の硬派な考え方が受け継がれていたし
友達の親がヤクザだとか元暴走族だとか
当たり前に身近に居たからこそ
影響されて育って行った
だから俺達が暴走族の様になって行くのは
今考えると必然だった様に思う。
しかし、皆んなが中免を取って
続々と単車に乗っていく中
俺は誕生日が1月で早生まれだったから
同級生よりも16歳になるのが遅く
それをただ羨ましそうに眺めたり
たまに借りたりケツに乗せてもらったりして
早く俺も乗りたい
と、ひたすらにその思いを募らせていた。
そして、無事に16歳を迎えて中免を取って
遂に俺も単車に乗る事が出来た
俺が乗っていたのはCB400T
いわゆるバブという単車だった
あの頃の時間の感覚っていうのは
楽しみにしていた分過ぎるのが本当に遅くて
皆んなよりも長い事我慢していた分
そこから毎日が本当に楽しかったし
何よりも心の底から幸せだった。
仕事の給料は
全て単車の改造費に注ぎ込む程夢中になり
仕事が終わったら
作業着のままで仲間達と集まって
夜中や朝方まで走り続けたし
行動範囲がかなり広がり
何処までも行ける様な気がして
本当の意味で自由になれた気がした
こんな毎日がずっと続けば良い
ずっと続くんだ
と、本気でそー思っていた。
でも、15.6歳から仕事をしたり
単車に乗って暴れ回ったりしていると
社会の厳しさと共に
大人の世界と言うものに
徐々に触れる様になって行く
と言うのもいわき市は
建設業の職人の他にも
港がある為漁師業も盛んで
市の面積が大きい分人口も多く
東北の最南端に位置する為
関東からも人が集まる傾向があった。
それに伴い
東北最大のソープ街や
各町毎に飲み屋街があり
血の気の多い人達が数多く居たし
人は多いが町自体は密集している為
何処に行っても知り合いに会ったり
良い噂も悪い噂もすぐに広まり
世間の狭さをこれでもかと体感して来た
そんな町だからこそ
現役の不良の方達が
今でも数多く存在しており
かなり近いところに居た為
悪ガキ達が目を付けられない訳が無かった。
そーゆう世界の人達には
町毎にしっかりとしたルールがあって
単車に乗るならチームに入ってないといけない
とか
商売するならお金を払わないといけない
とか
都会じゃそんな事無いみたいだけど
いわきという昭和の名残りがあるこの町で
俺達みたいな人間が生きて行くには
上手く共存して行く以外に道は無かった。
最初のキッカケは
その当時全国的にも数多く存在していた
旧車會という単車の集まりの
元暴走族だった方達が
大人になってその当時を思い出しながら
ルールを守ってツーリングをする
という名目の集団で
単車に乗らなくなった今では
全く分からなくなってしまったのだが
当時は、いわきだけでも4チーム程あった
まずはそのツーリングに誘われたり
うちのチームに入れという勧誘から始まった。
だが、俺はそれらを全て断っていた
こんな事を言うと怒られるかも知れないが
当時の旧車會は
ほとんど現役の不良の方達がやっていたし
俺自身、現役の方とは
あまり関わりたく無かったのと
名前すら聞いた事のない様な
10代の同年代の奴等が
その方達と一緒になって走っているのを見ると
人の力を使って粋がってる様な印象を受けたし
俺にはそれがどーしても中途半端に見えて
全く憧れる事もカッコ良いと思う事も
正直一切無かったからだ
それに、一緒に走ったり集まったりしても
ただ気を使うだけで
仲間や身内で走っている方が
俺には何倍も楽しいと思えた事が1番の理由だ。
俺はただ仲間達と一緒に居れれば楽しかったし
自由を求めて足を踏み入れた世界で
結局大人達に縛られて不自由になるなんて
そんなシステムやルールには
どうしても納得がいかなかった
だがそれで痛い目に遭いそうになったり
実際に問題になる事も
ハッキリ言って少なくは無かった
そんな環境で毎日を過ごしていると
徐々に人生について考える様になったり
自分の未来に関して気付く事が増えて行った。
俺、このままだと
あいつらみたいになってしまうかもしれない
断れずに引き返せないところまで
行ってしまったらどうしよう
いつまでもこんな事をしていてはいけない
俺はヤクザにはなりたく無い
と、本気でそー思ったのたが
だからと言って
俺には他に道なんて無かったし
毎日ただやりたく無い仕事をやって
安い給料をもらって
夢も希望も無い繰り返しの日々を
普通に平凡に生きていく事なんて
俺には到底出来るハズが無かった。
そんな時に俺を救ってくれたのがHIPHOP
そして、音楽の存在だった
前回の留置場での生活vol.3でも
詳しく経緯を書いた通り
俺が音楽を始めたのには様々な理由があるが
これも俺の中で大きな一つの理由である。
とりあえず今回はここまで
次のvol.3からは
どの様にして俺が音楽を始める事になったのか
について続きを書いて行こうと思う
長々と読んでくれてありがとう
またここでお会いしましょう
またね!
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