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楽しいの本質を表現するについて。


卓球を楽しむ。


どうすれば楽しめるのでしょうか?


上手になったら楽しいのか。

勝てたら楽しいのか。

集中できたら楽しいのか。

皆んなで盛り上がれば楽しいのか。


一人一人違う答えが出てきそうです。
そして、それぞれが正解だと思います。


一つ言えることは

本質として 楽しい というものは
楽しもう として至るというより
自己の中にある目的のため精一杯やった先にある境地こそ 楽しいの本質 に至るというもの。

そこに至らないことには
表面的には同じことをしていても
楽しかったり、楽しくなかったりする。


ちなみに、
自己の中にある目的なんて
やっているうちにコロコロ変わる。

つまり逆に言うと、

上手にならなきゃいけない
勝たなきゃいけない
集中しなきゃいけない
皆と一緒に盛り上がらなければいけない

それらは少し違うと言えます。

目的は皆が違うから。
◯◯でなきゃいけない は間違いという意味。
集団としての目標とか方針は良いのかもしれませんが、決して本質ではないということ。


本質と違うものは、長続きしない。



指導者として
楽しいの本質と向き合うことは大切です。
⁡それは生徒の中ではなく自己の中でも同じです。




私は指導者としての道を歩んでます。
指導者として日々勉強をします。
新しい理論やノウハウを学び、それを噛み砕きます。
生徒様が学びやすくするための練習方法も考えます。色んな実験もします。

また経営者として、お店の管理、日程調整、その他企画などを行います。
目先のことだけではなく、どうしたら卓球の裾野が広がるのかを考えます。
夢の中でも考えてたりするので
そうなると24時間
頭の中にリバーズがいます。

そしてそれを楽しんでいます。

楽しいですが決して遊びではなく
指導のプロとしてお金をいただくので必死。
生徒様の卓球上達のために全力を注ぐことは前提での話です。
精一杯勝負しているから楽しいのです。



さて
ここで話が変わりますが、
ある時、卓球指導をしている中国のコーチと話す機会があり、
その方にプレーと指導どちらが好きなのか聞いた時の話をします。



「これはビジネス。これしかないからやってる。
自分は卓球をずっとやってきた、だから卓球関連なら勝負しやすい。
そうやって自分のやってきたことが生かせるビジネスは楽しい。
嫌いではないが好きで言えばサッカーやバスケの方が好きだと思う。」



そして、

「日本のある学校の部活動を任された時
生徒達のモチベーションが最初わからなかった。」

とその方は言う。

「日本の学生はほとんどの人が、自分がプロにならないことをわかっている
それなのになぜここまで必死になるのかわからなかった。
将来看護師になりたい?なら今必死になるべきことは卓球ではないじゃないか。卓球をやっている場合ではない。」

と。


言われてみればたしかにそうだと思います。
日本の部活動に根付いてる独特な文化と言えるでしょう。
(実際にある視点では問題視され現在進行形で変化があります。。個人的には子供達に対して教育の範疇を越えるべきではないと思ってます。スポーツもひとつの学です。その前提でどこまで学ぶかは本人が決めることだと思います。結局やらされて身につくものは問題が起きる。本質と違うものは続かない。エスカレートして本当に必要なものが見えなくなるのもよくない。そもそもスポーツに限らずの話ですが現代社会は何かと情報が多い。なので本心や足元が見えにくくなってしまう。本当は子供達自身が自分自身と向き合えるようにその能力を磨かなきゃいけないと思ってますが、それを指導するはずの保護者や教育者自身がまず自分と向き合えていなかったりなので結局、、、、と話が長くなりそうなのでその点はまた別の時に。。。)



言われてみれば
そもそも
なぜそこまでして卓球に必死になるのでしょうか。



卓球をやる意味ってなんでしょうか?

卓球を習う意味ってなんでしょうか?





この漠然とした問いから答えを出すために
考え方を変えてみましょう。


いままで卓球をやってきた身として考えてみます。


卓球で学んだことは何か?
得られたことは何か?



私自身はいくつも挙げられます。
青春らしい思い出だったり、卓球での人間関係だったり、体力だったり、根性だったり、、、などなど。

しかし思い返してみれば
それが自己の目的だったかというと、
必ずしもそうではなかったことがほとんど。


おそらく
私も含めてほとんどの人は一番最初に興味本位で 卓球に触れる。
もしくは たまたま 卓球を選択する。
それから卓球の上達を目指し、後に大会で勝つことを志す。
そうやって徐々に目的も移っていく。



達成した目的もありましたが、
卓球で得られたものを改めて思い返した時に
試合結果や肩書きなど表面的なものよりも、大きな収穫は内面的なものだったりします。


さらにもっと言うと、

卓球で学んだこと
卓球で得られたこと


それらは必ずしも卓球でなきゃダメだったとは言い難い。


たまたま 卓球だったということ。



試合で結果がでることが楽しいのも
仲間と卓球で盛り上がる時間が楽しいのも

私にとっては今の仕事が楽しいのも


たまたま 卓球だったということ。

しかし卓球を通じて多くの 楽しい に出会えた。
卓球がなければそこには至らなかったとも言えます。
それだけ卓球にハマってたということ。





卓球じゃなきゃダメなんてことはない
いくらでもたどり着き方がある

どんな道でも、どんな目的でも
精一杯やった先、
最終的にたどり着く場所には
楽しいの本質 があると考えてます。

自己の目的のため精一杯やることで楽しいの本質に至る

指導者としてレッスン中に出来ることは

目的に意識を向ける。
 何が目的かは変わる、練習メニュー一つとってもそういつでも意識する。

目的ための道を示す。
 本人が見出す道も良い、しかし選ばない道も知ることは良い。指導者としてこんなやり方があるという引き出しは日々蓄えておく。

・自らも自らの目的に対して精一杯やる。
 実際にやっている人の影響力は強い。それはパッションがあるから。




リバーズに来ている子供達がどんな将来を選ぶかはわかりません。
しかし私自身は卓球の先生として、その一方では身近にいる経営者として、
自分自身の歩みとこれからも挑戦する姿勢を体現する意識は持って日々活動しています。


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