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カースト制度を馬鹿にできないのではないか?と思う日々
知り合いがあまりにクソすぎたので、仕方なく説教をした。彼は理があって話を聞いていたわけではなく、ただ金を貸した恩義があるから話を聞いていただけだった。同じような注意を他の人にされたら、彼はきっと烈火の如く怒って反論していたことだろう。関係の薄い人間が説教しても聞く耳など持たないのは理解できるが、それにしても彼の態度には呆れるばかりだ。彼が何故怒られているのか、その中身を理解もしていないのだから。
そんな経験をしたせいか、理屈を無視して人を見て意見を変える人間が存在することを改めて実感した。そしてこれは、いわゆる「パヨク」と呼ばれる人たちにも当てはまるのではないかと思ったのだ。彼らは部族内の顔色をうかがいながら、正しいことをしているふりをしているだけで、そこに理屈などは存在しない。結局、彼らは教義にどれだけ従っているかを基準にしているだけの教条主義者なのではないかという疑念が湧いてきた。
カースト制度を古びた社会制度と笑っていたが、理を伴わない教条主義に陥った人々を見ると、彼らも同じ穴のムジナに過ぎないのではないかと思えてならない。バラモンやシュードラのような固着した社会階級と同じく、教義や他人の顔色を伺い、自身がどれだけ正しい行いをしているのかを測っているだけなのだ。これは、頭のおかしい環境保護団体やポリコレ騒ぎも同様の構造を持っているのだろう。
結局、人の認知の限界はこの程度なのだろう。どれだけ教義に則っているかが基準であり、理にそぐわない点は同じ教義を信じる者たちがふんわりと補填してくれる。理屈や論理は弱者の武器である。その武器を振るう必要がないほどの社会的地位を既に持っている者には、論理など不要なのだ。しかし、論理というものはそれ自体が構造的な美しさや歴史を超える強さを持っている場合もあり、決して一笑に付すべきものではない。
というようなことを最近気にしているので、ここに記しておく。
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