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平和台の坂

2009年の福岡国際マラソン大会プログラムに寄稿した記事です。瀬古さんと高岡さんについて書かせていただきました。

◆福岡5戦4勝の勝負師

 ちょっと年輩のマラソンファンに「最強のマラソンランナーは?」と問えば、瀬古利彦の名前を挙げる人が多い。特に福岡国際マラソンの瀬古は強かった。右ページの成績一覧からわかるように、5回出場して4回の優勝と1回の5位。その5位も日本人ではトップだ。大学2年と駆け出しの頃で“新星出現”と評価された。
 2度目の福岡は早大3年時で、トラックの1万mで27分台を出したシーズン。そのスピードを存分に生かし、「マラソンってこんなに楽なペースなんだ」と感じながら走っていたという。36km過ぎで瀬古がトップに出て初優勝を果たしたが、飛び出した宗茂(旭化成)の自滅ではなく、学生の瀬古がレースをコントロールしていた。
 宗兄弟、喜多秀喜(神戸製鋼)、伊藤国光(鐘紡)が台頭し、日本のマラソン界が一時期の低迷から脱しつつあった頃。瀬古の衝撃的な登場でさらに、「ピリッと引き締まった」(喜多)と言う。
 翌79年の福岡では、宗茂・宗猛兄弟をトラック勝負で破って2連勝。80年のモスクワ五輪代表を決めた。そこまでは早大入学時に瀬古陣営が考えたプラン通りだった。
 高校のスーパースターだった瀬古は一浪後に早大に進んだが、入学と同時に出会った中村清監督(故人)に強烈に感化された。出会ったその日に「マラソンをやりなさい」と言い渡された。素質に頼って走っていた瀬古を、“走る修行僧”と言われるまでに変えていった人物だ。
 モスクワ五輪でメダルを獲得するには前年の福岡で代表権を獲得すると、本番まで余裕を持って練習できる。そう判断して、大学4年時の福岡に照準を定めていた。
 そこで予定通りに代表権を獲得したが、ソ連のアフガニスタン侵攻があり日本はモスクワ五輪をボイコット。瀬古の初代表は幻の五輪となってしまった。
 だが、その年の瀬古は“世界最強”だった(と個人的には思っている)。7月のヨーロッパ遠征1万mで27分43秒5の日本新をマーク。ロノ(ケニア)の世界記録とは21秒1の差しかなかった。そして12月の福岡では、モスクワ五輪金メダリストのチェルピンスキー(東独)をはじめ、海外の強豪を一蹴して3連覇を達成した。
 4カ月後のボストンでも宿敵のロジャース(米国)を破って優勝。ボストン後に故障をしてブランクが生じたが、マラソン復帰戦の83年2月の東京国際で2時間08分38秒の道路日本記録を樹立(当時世界歴代4位)。2時間08分55秒で走った宗猛を破った。同年12月の福岡ではイカンガー(タンザニア)をラスト200 mからの必殺スパートで一気に引き離し、福岡V4を達成。3、4位の宗兄弟とともにロス五輪代表を決めた。
 その瀬古が「福岡で一番思い出深い」と言うのは、意外にも宗兄弟に苦戦した79年のレース。40kmで宗猛がスパートし、兄の茂もそれについて瀬古を引き離した。一時は30mほどの差になったが、徐々に追い上げた瀬古は平和台競技場への取り付け道路に入る手前で追いついた。そして、得意のトラック勝負に持ち込んだのだった。
「1週間前にやった5000m×2本の疲れがとれず、レース中もずっと体が重たかった。35kmで行かれたらダメだったね。余裕がないときは、スパートに反応しない方が良い場合もあるとわかった」
 成功したスポーツ選手がよく覚えているのは、成功例よりもむしろ失敗した(苦しんだ)ケースなのかもしれない。

◆“記録男”の競技人生最大の勝負

 最近のマラソンファンに「最強のマラソンランナーは?」と問えば、今年(2009年)2月に引退した高岡寿成(現在はカネボウ・コーチ)の名前を挙げる人が多いのではないだろうか。トラックで5000m、3000m、1万mの順で日本記録を更新し、マラソンでも2002年に2時間06分16秒の道路日本記録をマークした。5000m以外は現在も日本記録である。
 その高岡にとって福岡国際マラソンは「節目節目になった重要な大会」。競技人生で最も印象に残ったレースに挙げているのも2003年の福岡で、瀬古の79年大会と同様会心のレースではなかった。
 そこまでの高岡は1つ1つ確実にステップを上がってきた。1万m予選落ちに終わったアトランタ五輪でトラック挑戦をあきらめず、シドニー五輪で7位入賞を果たした(アフリカ勢全盛の今日、トラック長距離種目最後の入賞では? という声も聞く)。
 1万mで日本記録を更新していなかった高岡は、翌年5月に米国カージナル招待に遠征。中山竹通の日本記録を0.24秒ときわどく更新した。そして、満を持して初マラソンに臨んだのが2001年福岡だった。
 しかし38kmで「いきなり脚が重くなって」(高岡)2時間09分41秒で3位という結果。目標は当時の初マラソン日本最高(2時間08分53秒・森下広一)だったから、成功ではなかった。だが、失敗ともいえなかった。「2時間10分を壁と思わなくて済んだから」
 そのレースの中盤で「こんなに遅くていいの?」と感じながら走っていた点は、78年大会の瀬古と似ていた。ともに日本屈指のスピードランナー。2人が同じ感覚を持ったとしても不思議はない。
 違いはマラソンに取り組んだ年齢だった。瀬古が20歳で初マラソンを経験しているのに対し、高岡は01年福岡時点で31歳。瀬古がマラソンをやりながらトラックの記録を縮めていったのに対し、高岡はトラックを極めてからマラソンに進出した(本人は27分20秒くらいは出したかったようだが)。動きをマラソン仕様に切り換えないと走れない高岡は、瀬古のように両種目に並行して取り組めなかったのだ。
 初マラソンに福岡を選んだのは瀬古と同様、五輪選考会を本番から最も遠い時期に走りたかったからだった。2度目のマラソンは02年10月のシカゴで、「記録と海外マラソンの経験」を求めた。その結果が2時間06分16秒の道路日本新記録。当時の世界歴代4位は瀬古の日本新のときと同じである。
 そして高岡は、プラン通りに五輪選考レースの2003年福岡に臨んだ。万全の状態を作り上げた自信があった。
 それでも高岡は負けた。38kmでスパートしたが国近友昭(エスビー食品)と諏訪利成(日清食品)を振り切れず、逆に40km過ぎで引き離されてしまった。2時間07分59秒で優勝した国近とは7秒差。2位の諏訪までがアテネ五輪代表に選ばれ、高岡は補欠にとどまった。高岡のタイムはセカンド記録の日本最高だったが、諏訪との4秒差は言葉にできないほど大きかった。
「オリンピックで金メダルを」という決意でカネボウに入社して10年8カ月。トラックを極め、完璧な準備で五輪選考会に臨んだだけに、“絶対に勝たなくては”という意識が強くなりすぎていた。それがプレッシャーとなり高岡の動きに微妙に影響したのかもしれない。
 高岡もこの見方を否定しない。だが、簡単に認めたくないもない様子だった。
「プレッシャーだけが原因だとしたら寂しいものがあります。確かに、2番ではオリンピックに行けないと考えてしまっていましたが、そういうプレッシャーに打ち勝ってこそ、本番でも勝負ができる。トラックや海外の試合で、勝負強さや経験を身につけてきたつもりでした」
 普段の言動には“人のよさ”がにじみ出る高岡だが、03年の福岡を振り返るときは“勝負に全てを懸けた男”を感じさせた。

◆2人の競技人生を導いた“坂”

「スパートに失敗した」という気持ちが尾を引いた高岡は、40km過ぎで逆に引き離されてえしまった。その後もあきらめずに追走したが、明治通りから大濠公園の堀を渡って平和台競技場に入る取り付け道路の上りが、かすかに残っていた高岡の戦意をくじいた。距離にすると200 mくらい。高低差は5mもあるかどうかの坂である。
「力を使い果たしたところにあったからきつかった。こんな坂、という程度の坂なんですが、あんなに苦しい坂もなかった」
 そこで1秒でも2秒でも差を縮めていたら、トラック勝負がどうなっていたかわからない。だが、そのときの高岡にはどうしようもなかった。
 実は瀬古もその坂が印象に残っているという。福岡の4度の勝利のうち、79年と83年の2度の五輪選考時はトラック勝負を制したのだが…。
「宗さんたちに離された79年も、取り付け道路のちょっと前で追いついたあと、あの坂で休めた。2度ともあそこで“勝ったな”と思えた」
 2人の平和台の坂の印象は正反対だ。
 瀬古は79年の福岡が、自身の競技歴においても分岐点になったと言う。
「あそこで宗さんたちに負けていたら、その後の流れが変わったかもしれません。調子が悪くても勝てたことで、その後も勝ち続けることができた」
 高岡にとっては文字通り、オリンピックへの道が閉ざされた坂だったが、その後の競技歴を見ると、瀬古と同じで平和台の坂は上昇のきっかけにもなった。
 自身の日本記録こそ更新できなかったが、次戦の04年シカゴでも2時間7分台をマーク。最初の5kmを14分25秒で入るレースで潰れなかったのは、高岡以外の日本選手にはできない走りだろう(中国電力の佐藤敦之がどうか)。2レース続けて2時間8分を切った日本選手は高岡が初めてだったが、それを3レースに伸ばした。
 その次の05年東京では、25km~35kmを30分02秒でカバーして独走態勢に。自身が目指した1km3分00秒、5km15分00秒で押し切る走りを勝負所で完璧に実行できた。40kmまでの5kmは15分18秒で、2位のバヨ(タンザニア)をその区間だけで48秒引き離した。東京のコースには37kmから平和台とは比べものにならない坂があったが、平地と同じリズムで上りきることで15分18秒というタイムになった。高岡自身、「僕は坂に強いんです」と冗談交じりに話したほどだ。
 その結果が4レース続けてのサブエイト。記録にもこだわった高岡の真骨頂だった。
            ◇
 瀬古は84年ロス五輪は不調で14位。4位の宗猛に初めて敗れた。88年ソウル五輪は代表になったものの、当初予定していた選考会の87年の福岡に出られなかった。88年12月の国際千葉駅伝を最後に32歳で引退。全盛期のようにタイムトライアルで調子を上げていく練習が、87年からできなくなっていたという。
 高岡は07年の福岡で北京五輪代表入りを目指したが10位。すでに、トラックのスピード感覚を生かしたマラソンができなくなっていた。09年2月の東京マラソンを最後に38歳で引退した。
 日本マラソン史の巨人と言うにふさわしい2人である。五輪メダリストにはなれなかったが、オリンピックへの強烈な意思をもって福岡を走った。命懸けで挑んだ。平和台の坂にその残滓(ざんし)を感じられたら、それで十分である。

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