僕の「死生観」を言語化してみるチャレンジ
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50年も生きていると近しい人が亡くなる機会というのが少なからずある。
訃報を受け取るたびにいろいろな想いが去来するわけだけど、最近自覚が出てきたことがある。
それは、「どうやら僕の死生観、特に死に対する感じ方は、多くの人とかなり違うようだ」ということ。
以前から軽い違和感のようなものは感じることがあったのだけれど、このnoteに深堀りの記事をたくさん書くようになり、内省・内観が日常当たり前になってきたら自覚がでてきた感じ。
僕はまだ現世においては死んだことがないので、主に他人の死に触れたときの感覚。
そして僕は健康体だから普段自分の死についてすごく身近に感じることはないんだけど、先日高速道路で事故に巻き込まれそうになったときなど、ヒヤッとしたときに感じる自分の死について。
まだ定まっていない部分も多々あるんだけど、せっかく自覚が出てきたので形にしておこうと思う。
そもそも、僕は人が死ぬことが悲しくない。
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