ミスiDを受けたいと願ってしまったわたしへ

ミスiDの先輩がうるさいと言うのは本当のようで、新しくミスiDを受ける人に、伝えたいと思う感情が湧き出てくる。

わたしはミスiDを受けると決めたとき、noteばっかり読んでいた。インタビューとか、受賞者の感想とか。
ミスiDの一年間を追ったことが無いから、どんな場所で、どんなことをしていて、どんな人がいるのか、どんな後悔をするのか、全部知りたかった。

なりたい人間になるために、事前にミスiDについて擦り切れるほど調べた。選評もツイートも、ミスiDでプラスになることは何かを身体に染み込ませた。

計算高くてあざとい。

でも、わたしは一年間人物像を突き通した。
打算的に生きることが、誰よりも得意だから。

ミスiDを受けたくて、調べずにはいられなくて、ミスiDらしさを求めてしまう貴方に、わたしの少しを。



わたし→アメイジングミスiD2021という称号だけを手に入れた16歳の高校生。アイドルでも女優でも被写体でもない。フォロワーは100人ちょっとしかいないし、知り合いに身バレもせず、ミスiDに出たからと言って友達はいない。

ネガキャン

ミスiD2021のキャッチコピー
「夢見る頃を過ぎても」

わたしはこれにしか惹かれない。初めて知ったときはそんなこと無かったのに、今になって。もし他のキャッチコピーだったら、Twitterで目を惹かれてエントリー中だと知ることなんてなかった。

だから、少しでもキャッチコピーが気になったなら、自分のものにする決断を躊躇わないほうがいいのかもしれない。一年間の自分の物語にタイトルが付いたら嬉しい。


もう一つミスiDを受けることを決定づけたのは選考委員方々の言葉だった。

"迷っているなら応募したらいいと思う。
何なら応募しなくてもその思考だけで価値がある気もするけど。"

"ミスiDの扉をじっと見つめていて

さらにそのうちの何名かが
その扉をその手で叩くのだと思います。"

応募しなくても価値があって、それだけで尊くて美しい人間たちの、少しの勇気と覚悟がある人が、憧れの対象になっていると知ってしまって。わたしはどうしてもあちら側に行きたくて、ミスiDを受ける側に行ったことを褒めて欲しくて、エントリーした。

2022に選考委員コメントもショートムービーも無いことが凄く寂しい。今だからこそ生まれる言葉が。


ミスiDらしさとか、そういうものは勿論気にしていたし考えていたけれど、向いていないことはやらなくてよかった。悲しくなるものは見なくていい。自分じゃない何かになろうとしたって、それで認められたって、残るのは虚無感と失われた自分自身だけ。

わたしはミスiDで、神聖で静かで美しい人間になりたくて、そういう空気感を身に纏うように、自分の中の少女性を強く引き出して一年を生き抜いた。

文章しか好きじゃない。自撮りは殆ど上げない。それでも好きだと言ってくれる人がいた。CHEERZもハッシュタグも苦手だったわたしを、誰かはちゃんと見てくれた。

無責任に大丈夫だと言う。
責任なんていらない。

戦っている人を見て苦しくなるなら、そっと耳を塞いだって誰も貴方を傷付けたりしない。守れなくても永遠に味方でいる。

CHEERZは得意な人がやればいいなんて理想論も現実で。殆どCHEERZを投稿せず配信もしないままファイナリストになった。わたしが選ばれし人間だとかそんなんじゃない。ただ一つ一つ、伝えたいことを丁寧に積み上げていった。それだけで良かった。

もうミスiD期間に載せていたnoteは無くなってしまったから、参考にはならないけれど。自分を知るには一番大切だったと思う。文章の評価は高くない。

選評で初めて、自己紹介文とエントリー動画が思っているより重要だと知った。

重い独白をしなくたっていいから。病気にならなくたって大丈夫だから。生きているだけで現れてくる貴方のどうしようもない尊さを知りたい人が、この場所を選んでいる。


世界にはわたしよりずっと長く生きている人のほうが多くて、ずっと多くの愛も悲しみも持っている。

可愛いとか武器とか無理矢理苦しくなる為に生きるくらいなら、好きを突き通して欲しい。メリットもデメリットも年齢も責任も全部捨てたって構わない。


ミスiDに救われたなんて思ったこと無いけれど、ミスiDが好き。



ミスiDを受けたいと願ってしまった
わたしと同じ人たちへ

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