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PPPPPPを読んで、呼吸が止まりそうになった。

PPPPPPを読んで、呼吸が止まりそうになった。

読んで、というか、それを体感したのは64話を読み終えた後、誤ってページを閉じてしまったときのことだった。戸田真琴さんがツイートで漫画を紹介されていて、表示された画像の中には、ピアノと、ピアノの前に立つ少年がいた。ピアノの森を思い出して、ちゃんと読み切れていないことを少しばかり後悔した。漫画は全話無料公開中らしく、緊張しながら読み始めた。

読み始めて、面白くて。それはストーリーもそうだし、苦しさとか、コントロールできなさとか、ピアノの話というよりは天才の話なのだけれど、感情と人格の話で、「私」の話だった。「我思う故に我あり」の、「我」の話。そして表現の話。天才の感覚で、ファンタジーを体感する話だから、全然わからない気がする!と思うのに、途中で読むのを中断したら、呼吸が浅くなっていて、どんどん過呼吸になってびっくりした。小説を読むときに、自分の心音や呼吸を感じることが多いから、本を読むことと呼吸をすることはわたしの中で繋がっていて、PPPPPPを読んでいるときのわたしは、無意識に息を止めて、息を飲んでいたんだと知った。音楽の表現や表現した先に生まれる世界のことを、絵と言葉で表現していて、音が視覚的なのがとても面白いし、音には感情が乗るから、自ずと感情も視覚的になっていて、この世界を自分はわかっているのかすら分からないまま読んでいたけれど、客観的に当人や周囲が感じ取ったものはちゃんと説明されるし、人間の話だから全部の糸が解けるわけでも、明瞭に原理を解説できるわけでもなくて、それがとても誠実な気がしていて、楽しかった。本当は知りたいし、終わりは突然すぎるけれど、人生を覗いていたのだとしたら、それは覗かせてくれた時間がラッキーだっただけで、全部見ようとするなんて品がない。欲深いなあ人間。

才能だとか天才だとか、わからないことをそう呼んだりだとか、綴由良になってからは一層、わかってはいけない、理解したと思ってはいけないような空気感がある。それが相手を尊重することで、理解されたくないし、共感が全てじゃないし、でも、理解しようとしていないだけじゃないかって思うこともあって。理解できないという賛辞で、天才扱いすることが価値を理解できているというマウント。大人ってこわ、とか思う。もう18歳なのに。天才には天才が住んでいて、凡才は始めから凡才で、全然追いつくとかじゃないし、でも人生は素晴らしくて、表現を辞める必要なんて全くないし、天才が天才であることを選ぶことは義務じゃないし、自由って素敵で、物語が終わったとしても人生は続いていて、悲しいことは乗り越えなきゃいけないわけじゃないし、欲に飲み込まれてもそれはそれだし、後悔は自己責任だし。人生も「私」も。

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