津説あらた

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最近の記事

「選択的夫婦別姓」小考(1)

 ごく最近に関して言えば、自由民主党の総裁選に関連する形でいわゆる選択的夫婦別姓に関する議論が再び輿論・世論に示されています。今度の機会に限らず、いわゆる選択的夫婦別姓という話は常々議論されてきました。ここでそれについてしばし考えてみたい。  先に述べておきましょう。筆者は、後述する文章の中に示されてしまっていることでしょうが、基本的にはいわゆる選択的夫婦別姓というものの必要性について懐疑的な立場です。筆者の保守性も合わせて、反対の立場と言えましょう。しかるに、長期的にはい

    • 「対話」から感じ取られる党派性

       対話というものは極めて重要であります。特に現代では、と書こうと思いましたが、いつの時代でも重要であることに変わりありません。立場の異なる人々が、共存するべき味方であり、同じ基盤に立つ者であることを前提としつつ、その異なる立場から衝突したり妥協したりする意味での対話は、平和的で誠実な共同の基本と言えます。ただ、特に現代では、社会の分断や、いわゆる陰謀論のような独善的な世界観ということが問題視され、そこから対話が重要であると強調されることがあるようです。  しかるに、対話とい

      • 「利用」に陥ってはならないこと

         本朝ではしばしば君主制擁護論が見られます。日本やイギリス、その他の国では君主制を擁護する議論が少なからず繰り返されていることでしょう。このような君主制を擁護する行為の背景にあるものは、フランス革命以降に定着した反君主制の意味での共和主義や、共産主義者がそれを命じていた反君主制の議論が強い時代があったり、また広い意味での民主主義というものが非常に尊ばれる時代でありながら、民主主義が一見君主制と矛盾しているように見え、その立場からも反君主制の議論が少なくなかったり、はたまた単な

        • 非武装中立(あるいは憲法9条)の魅力の変化

           憲法9条、あるいはいわゆる非武装中立の思想が極めて魅力的であったのは、特に核兵器が意識される冷戦下という状況に合致したからであったように思われます。  核戦争と核兵器による滅亡という予想は分かりやすい恐怖であります。広島及び長崎のマンハッタン計画以降、ソ連の核兵器開発、米アイゼンハワー政権期大量報復戦略、ド・ゴールの核実験等、核拡散を制止できない雰囲気の中で核兵器の軍拡競争があり、アメリカのジョンソン政権期に相互確証破壊が打ち出されるに至ったことを考えずとも、核戦争は極め

        「選択的夫婦別姓」小考(1)

          短絡主義について

           短絡主義と筆者が個人的に呼んでいるものがあります。筆者にはその用意がないので、具体的になにが短絡主義であろうと思われるかはここで示さないこととしますが、何らかの悪因悪果について指摘したり、非難したりする言説があるときに見える一種の様式です。近代的な思考とは類似点を見出す思考であるとベンヤミンが行っていた様な気もしますが、実際誰だったか…… ともかく短絡主義はそれの一例と言えるのでしょうか、様々な問題(問題とされたもの)に、同じある特定の原因を見出す振る舞いです。ありとあらゆ

          短絡主義について

          憲法改正と対アメリカ・コンプレックスについての書き散らし

          1  憲法改正に関する議論は戦後長らく続いてきています。その焦点は長らく9条と自衛隊とに置かれており、護憲と改憲の焦点は、いわば戦争・防衛をどこまで制限するかにあるのですが、もう一つ、アメリカ的なるものに対するコンプレックスをいかに解消するのか、という大きなテーマがあります。それは、占領期に憲法が改正されたことによって、つまり、アメリカ・GHQのかなりの主導によって憲法が改正されたことによって生み出された、我々なるものの存在に関わるほどの深いアメリカへのコンプレックスをどう

          憲法改正と対アメリカ・コンプレックスについての書き散らし

          元号(和暦)の改良案小考:元号に数字を加える

           元号には西暦(あるいは皇紀)に比して不便な所があると言われます。まあ近年のインターネットなど情報技術の拡大を考えれば、検索一つで調べたり計算したりできる話でもありますが、そういうちょっとした動作が覚えた不満を大きくしてしまうものであります。ここで筆者は元号ばかり用いている身として、その不便さを4つばかし検討します。まあ、まともに検討しているのは2つくらいです。特にその内一つについて最大の問題であると考え、改良案を提示します。 1、日本独自であって国際標準でない まず第一に

          元号(和暦)の改良案小考:元号に数字を加える

          平和主義についての小考と提案(後編)

           実際に「平和の機関」とでも言うべきものを設けるとして、それがどのようなものであるべきか、どのような特異な役割を果たすと期待出来るのかという点を考えてみたいと思います。 6  まず、「平和主義の機関」が存在することは、本朝の平和主義の実践の象徴となりと考えられます。つまり、本朝の平和主義が空虚な言説に過ぎないものではないということを分かりやすく伝えるものであります。よしんば空虚な言説に過ぎない場合でさえ、そうでないように思わせるものであると言っても良いかもしれません。況や、

          平和主義についての小考と提案(後編)

          平和主義についての小考と提案(中編)

          3  何もしない、何も出来ないことによる平和主義を消極的な平和主義とするならば、平和の為に行動する平和主義、もちろん単に戦争の口実になることのない平和主義は、積極的な平和主義であります。消極的な平和主義をやめ、積極的な平和主義を模索しなくてはならない、というのが前回の話の大枠であります。これ自体はもう何度も繰り返された議論でしょう。重要なのはこの積極的な平和主義を国家国民の平和主義の基調とし、その象徴を打ち立てることと思われます。  私としては、公の平和主義の機関とでも言う

          平和主義についての小考と提案(中編)

          平和主義についての小考と提案(前編)

          1  本朝は平和国家であります。それは、昭和天皇によって御制定賜り、戦後長らく憲法の極めて重要な一翼として肯定されてきた憲法9条が象徴的に定めるところであります。そしてこれは単なる平和言説ではなく国家国民の平和主義であって、それ故に、官僚や議会、大衆という専門的及び総合的回路を通じて、効果があるものとして発揮される力ある平和主義なのであるし、そうでなくてはなりません。  而して本朝は、戦争をしない国、あるいは戦争をすることが出来ない国として平和国家であろうとしてきたわけであ

          平和主義についての小考と提案(前編)

          経験としての歴史(2)、異界化する歴史と敬語

           歴史の客体化・他者化という私の言い回しには、歴史を今生きる現実からかけ離れた異界の如く扱うことを想定している部分もあります。歴史で語られているようなことは異界の出来事であり、現実の現在との因果関係は皆無であるか、あっても理解する必要がないというような立場は、根強いよう思われるのです。歴史を参考にするというのも、まだ第一に無関係なものと考えているというものとは思いますが、参考にするだけまだ客体化・他者化の程度は酷くないのです。  そうはいっても現代に近しい時代の歴史は現代人

          経験としての歴史(2)、異界化する歴史と敬語

          経験としての歴史(の反省)

           歴史上の問題への対応が、それを罪や悪徳と批判して、繰り返してはならない、してはならないものと定義づける所で終始するような言説が少なからずあるよう思われます。甲には乙という問題がある、故にしてはならない/してはならなかったという言説であります。特に先の大戦に関して、なんとなく自由を抑圧することに繋がる制度や、簡単にはあの開戦の決断について批判(批判)あるいは非難する際に用いられる印象です。  その全てとは言いませんが、その一部、歴史を客体化し、他者化し、自己批判・自己否定と

          経験としての歴史(の反省)

          差別語等について所感

           めくら、つんぼ、気違い、めしい。若い私にはこの程度しか思いつくことがありません。このような差別語/差別用語は今まで多く「駆逐」され、これからも駆逐されることでしょう。問題は、私は比較的古い本も読む人間であると思われますが、それでも差別語であった言葉をその程度しか思い出せないという事です。  差別用語と認定された用語が禁じられ、禁忌となり、それを使うことが最悪最低の人間性の発露かなにかのように捉えられること、これ自体も相当に問題であり、一つの「差別用語」について、その禁止と

          差別語等について所感

          愛国を少し問う

           思うに、戦前のことをただ否定する人間を愛国者と呼ばれても私はそれを素直に受け止めることは出来ません。また、等しく、戦後のことをただ否定する人間も愛国者とは思われません。戦前戦後と、それこそ戦中を区別しないようなぞんざいな分け方ですが、先の大戦への態度の違いという意味で十分意味がある例であると思われたのでこの例を使いました。この例でなくて、他に様々な例が想定されると思われます。  ここでの愛国者という言いは、そうと強いて自覚するような意味に於いての愛国者という意味であります

          愛国を少し問う