雑記 亡国の夢

 先の大戦によって本朝が滅びたという世界観がある、あるいはあったようであります。先の敗戦の影響をとにかく極大視しようとするような観念は大概それと見なしてもよく、逆に言えば、「滅びた」というのはその強い表現に過ぎないともいえましょう。むろんその世界観がすべてというわけではありませんが、既に滅びた国、存在しない国家として本朝を見たい意思を形作り、あるいは国際人、コスモポリタンとして無国籍人への志向を生み出したり、アナーキズムにも近しい思想を育ませたり、国家の大事と自らの生活生存とを全く切り離して考える習慣のもととなったりする、その一助となったのではありますまいか。古来、国が滅びればその君家もまた滅びたものであるという所から、戦後の所謂「皇室廃止」論も、亡国の君主家が存続するという事態に矛盾が感じられた故という側面もあったかもしれません。滅びたと思い込んだ国のものは滅びなければならぬよう思われ、滅びたと思い込んだ国のものに拘泥する必要はないものです。その滅びたと思い込んだ国は白紙の大地であり、即ちそれは新たな満州国、1から理想郷を形作れる場であったのかもしれません。しかし現実を見ると、この亡国の自由には様々な障壁が立ちはだからざるを得なかったようであります。結局のところ、端的に滅びていなかったということに過ぎないのでありますが、その事実誤認からは当然に生まれる悪い影響のみならず、時にはつらつとした良い影響も生まれたらしいことは認めざるを得ません。しかるに未だその事実誤認に胡座をかいている状態にある思想も少なくないよう思われます。しかしまた多いわけでもないようです。先の敗戦にあってなお滅びなかった国としての本朝を正面から分析しようとする姿勢は、例えば戦時体制に戦後という時代を形作る契機となった制度などを見出そうとする研究などがあるように、つとに(あるいはそう意識されることもなく)発展してきたよう見受けられます。

令和6年9月28日。

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