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19歳の自分が考える「最期」と「葬式」

はじめに

 これは「死にゆく過程」というものがこういうものです、ということを定義しているわけでもなく、そして、書いている今の自分が死ぬ間際にあるわけでもありません。
 今生きているうちに自分が「死ぬ」ことについて、今までの人生からどう思うようになったのかを書かせていただいたものです。
 絶対的な事実として、いつか、私も皆さんも、死ぬのです。
 ずっとずっと先のことにもなりますが空も植物も建物も、絵も土も星さえも、すべて必ず廃れていくのです。
 でもそれは怖くはないと思います。一般的に言う「天国」と定義されるような場所に行ってしまえばもう戻ってこないのですから。生きている世界からは見えないけれど、いつかその場所に行くことができた時に、先に行ったその人たちに会える、と私は信じています。
 宗教的でもなんでもなく、自分が「死」について考えたことを書き記したいということを叶えたものです。
 もしも、この初めの文章に少しでも「怖い」と感じることが有りましたら、一度閉じて、この書の存在のことをいったん忘れてください。
 いくら触れたからと言って、すぐに読め、ということはなく、そろそろ見ても良いかな、と思ったタイミングでも目を通していただければ、私は嬉しいです。

1,自分の理想の「最期」について

死ぬ場所

 できるなら、家のベッドで眠りながら死にたいですね。
 職をリタイアした後、病院のベッドではなく「家」という安心した場所で息を引きとりたいと思います。
 叶えられるかは分かりませんが、絵本の中のような場所で死にたいです。 海の見える丘の上に小さな家を建てて、鳥のさえずりを聴きながら植物を育てる、穏やかな生活とともに、そのまま死ねたら幸せかと。
 私が今まで葬式に出席した際、故人はほぼ全員住居ではない場所のベッドの上で亡くなりました。特に祖父は、緩和ケア病棟の個室で、孤独に夜に旅立っていったので、今も寂しい思いをしていると思います。
 あのときはまだ、真新しい中学校の制服を見せたばかりでした。心なしか、旅立ったあと、中学校卒業まで祖父の香りが纏っていたままだった気がします。

最期の食事

 アメリカでは、死刑執行前日の夜に、死刑囚は「最後の晩餐(ラスト・ミール)」というものを食べられていたということを知りました。
 でも、悪いことはせずに死にたい。しかしそれだと死ぬタイミングというのは分かりません。
 いつ死ぬかわからないけれど、仮におばあちゃんになってから死ぬとしたら、もう母の手料理が食べられないことは確定しています。
 でも、本当は母や祖母の料理を最後の食事にしたいです。これは「死ぬこと」を意識するようになってから変わっていません。

 理想の献立としては、炊き立てのご飯に納豆、おばあちゃんの漬けた漬物、ミニトマトがいっぱいの大ぶりなレタスのサラダに、たまごのスープ、メインは唐揚げ。デザートにはご近所さんのいちご。
 こんなに食べられるかは別として、大好物が食べたいです。もしかしたら、食べられることもできなくなるかもしれないですから。死ぬぎりぎりまで、自分で食べ物を咀嚼して、嗜んで、味わう日々を送りたいです。
 だから私は生きている中で何よりも「健康でいられることが大切」と思うようになりました。


看取られて死ぬか、ひとりで死ぬか

 自分が死ぬ瞬間は、誰にも見られたくないというのが本音です。
人は、聴覚が一番残っているのですが最後に聞く声がすすり泣く声だったら悲しい気持ちのまま向こうへ逝ってしまいそうで嫌なのです。
 死ぬことは怖くはないからこそ、この問題は一番難しいのです。
 ひとに看取られて体温というぬくもりを感じながら死ぬのも良いのかもしれません。でもそしたら冷たくなるのも向こうがわかってしまうので、誰にも見られたくないと思うのです。

2, 生き方と向き合う

今の社会に生きにくさは感じるか

 非常に感じています。生きていることさえ奇跡なのにそれに加えて努力を重ねないと存在を認められないのですから。世の中「頑張れ」って言葉を頻繁に使いがちだと思うのです。老若男女関係なしに、人は一日一日必死に生きているのに。
 なんだか今の社会は、人間としての本来の生き方を忘れてしまいそうな気がします。
 地球もほかの惑星もいつかは人間と同じで、天国へいってしまうのに。それだったら、もう少し穏やかに生かせてほしいなと、感じています。

「理想の生き方」とは

 30歳までに結婚して、田舎で子どもを育てながら、欲を言えば作家一本で生涯を過ごしたいです。脚本と小説を書き続けて、風を感じながら本を読んで、ラジオの音を誰にも邪魔されないような場所で。
 都会の空気には、何度足を運んでもやはり慣れることができないんです。
 よく、ひとりで東京だったり都市部へと旅をすることが多いのですがやはり高いビルなどがたくさんあると、どうしても威圧感を感じてしまうし、人の流れが速いし混んでいるしで、遊びに行くには良いのですが、住むには向いていないなと感じています。輝いているんですけれどね。
 山や海、川や森、それを彩る花々と広い空。
 私は、自然とともに生きたい人間だと思うのです。

目的のない毎日(自由な日々)を過ごしてみたいと思うか

 思わないです。
 毎日ではなくて、決まった期間だけ欲しいです。きっと人間誰しも、大人になるにつれて目的もなく彷徨うと自然に焦りを感じるのではないかなと思います。学校のこと、お仕事のこと、はたまた環境のこと。家庭を持っていらっしゃる方は親族のこと。
 社会を知ってしまえば何か動かないといけない、というふうに自然になっていくのだと私は考えます。でも、全てを頑張りすぎると疲れるんですよね。生きているものすべて。だから時々、「今日はとことん好きなことをするんだ」という日を作って、それをエネルギーにして生きていく。人生、きっとその繰り返しなのだろうなと思っています。

3,今の心の話

「手放せない」もの

①音楽
 毎日を生きるために必要不可欠です。一日一曲でも何か聴かないと心が保たれないような気がします。特に私は邦楽が大好きです。
美しい言葉とたくさん出会えたから、日本に生まれて良かったと思っています。ひらがなもカタカナも漢字も英語もすべて吸収しているこの国、よく考えたら本当に素晴らしく奥深いということであって、生涯で自分の国について完璧に知ることなんてできないですね。だからこそ声で伝わる力と、それを包むメロディーは自分にとって凄まじいものだと思うのです。

②ラジオ
 どうやら私は聴覚を刺激するものが好んでいるようです。ラジオって、耳だけで全ての情報を受け止めてくれるのでほかの感覚を使わなくてもいいんですよね。音楽だけじゃなくて、ニュースもCMもトークも全部耳で聴くだけで良いから疲れないんですよね。テレビも好きなんですが、視覚を一点に集中させる事が苦手な自分にとっては、何かそばに置きながら作業ができる存在として高い価値をラジオは持っていると思います。

③毛布・ぬいぐるみ
 ぎゅっと抱きしめると体温で温かくなって、時間が経てば自分の匂いが付く。
 これがたまらなく落ち着くんです。人間が一番好む感触ってこのことなのかなと考えたりもします。赤ちゃんがおくるみに包まれているようなあの感じが大人になっても好きなのでしょう。
 私にはもう16年も一緒に寝ている手のひらサイズのぬいぐるみがありまして。一緒に成長してきたので一生手放すことはできないですね。未だにその子がいないとなかなか寝付けないので。そばにいてくれる安心感を、ずっと教えてくれたので、これからも一緒にいたいです。

発達障がいと、精神疾患と向き合いながら

 私は、複数の個性を抱えながら生きています。かといって、それがあるだけで社会的に弱いだとかは考えたことは無くて、向き合いながら生きています。
 診断を受けた当時は「自分はダメな人間なんだ」とあきらめの気持ちでいっぱいだったのですが、それから自分に優しくする生活を少しずつ実践するようになって、「生きてるだけでいいかも」と脳内に気持ちが現れるようになりました。頼れるものには頼ってもいいんだなと。
薬も、カウンセリングも、知人に相談することも、最初のハードルって本当に高いんですけど、めんどうくさいんですけど言葉に出さないと人間って伝わらないんです。言うだけでもハードルが高いって、疲弊しちゃいますね。
ぜんぶがぜんぶ完璧じゃなくっていい。
誰もが壁を持っていて、それに向き合っている。
私はそう思って、今を生きています。

もし、知人からいのちにかかわることを告げられたら

 私は何度もお葬式に出席して、全部が病死だったんです。死ぬ間際の姿も、見たことがあります。
 だから、仮にそのようなことを知人から伝えられた時、きっと最後まで受け入れられることはできないと思うのです。未だに、両親がいつか死ぬという事実を想像しては一人で泣く夜もたくさんあります。
 でも私は、どういうふうに伝えられようが私は「寄り添う」だとか「話を聞く」だとか、「こころを落ち着かせること」を重点的に行うと思うのです。ずっとそうして生きてきました。
 生きることも死ぬことも自由であると思っている自分の思想に加えて、その時がいつかはわからないので肯定も否定もできません。
 「死にたい」「助けて」と言われたときも「〇〇したら?」と提案の言葉は、あまり言えないような気がします。言葉をかけることって、ほんとうに難しいんです。
 だから私は、まずそこまで頑張って生きてきた、耐えてきたという事実を認めてねぎらいの言葉をかけること、それが人とかかわるにあたって大切だと感じています。周りが幸せに生きられていると、自然に自分自身も幸せに生きられる。きっと周りの感情も自分自身に移っていくのでしょう。
 いつか私だって死にます。だから今生きている時間が穏やかで優しくあれることを、祈っています。

おわりに

 この度は、自分の考えるまだ拙い話に目を向けて、読んでいただいたすべての皆様に感謝申し上げます。
 改めて「死ぬこと」とはどういうことなのでしょう。ここまで書いても、分からないものなのです。きっとこの考えはまた歳を重ねるごとにこれからまた変わっていくのだと思っています。
いつかこの星も散り散りになってしまうので、今見えている綺麗な青空だって無くなります。だから死ぬときはみなさんいっしょです。向こうに行ったら二度と帰って来れないのだから。
「死語についてずっと興味があった」
たったこのひとつの考えが実って、この話を書けたこと本当に嬉しく思います。
本当にありがとうございました。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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