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人生に乾杯 17(保育士さん)

井上さく子先生は、うちの2人の子どもたちが通った保育園の園長先生だった。大層朗らか、純朴、なおかつ「滅私」の人で、保育士稼業を「卒業」後も、全国各地に呼ばれては講演や指導をしている。本人は「 ワタシ、回遊魚なのよ」と仰る。さく子先生のお陰で我が子2人の今がある。

当時住んでいたマンション6階の窓から、我が子を投げれば3メートル先にある反対側の窓から先生方が手を出して受け取ってくれそうなところに、保育園があった。その園に、さく子先生が園長としてやってきたのは2009年ごろだったように記憶する。当時、娘は5歳の年中さん、息子はまだ0歳児保育で通っていた。2人には不憫な生活をさせたと多少の後悔はあったが、園長先生が全てを救ってくれた。娘が友だちとケンカして泣いて帰ってきた時に、親を呼び出して話を聞いてくれたことがあった。自分の主張をするのではない、親の話を聞いてくれるのだ。こちらはいいはけ口になったものだ。息子が2歳になる前、腎臓の病気ネフローゼ症候群になったのに気付いてくれた。この時は、息子の体が少し浮腫んでいたのに気付たのだ。後で行きつけの内科医から「よく(ネフローゼという)病名がつきましたね」と驚かれた。

子どもへの目線が優しく、その性格を如実に現している一つが、先生が描く絵だ。白の色紙に男の子、女の子それぞれの顔が黒の墨筆で描かれ、そばに「誰よりも僕を好きと言える自分に」「誰よりも私を好きと言える自分に」という言葉が添えられている。この色紙、我々がシンガポールにいた8年間、部屋の壁にずっと飾ってあった。(今も都内の家のどこかにある、はず。)

さく子先生と言えば思い出すのは、マンションのお隣さんS家のこと。2011年3月11日に東日本大震災があった日のことは忘れられない。この日午後、僕は3日前に東京支社長職を解雇された外資系会社ビルの自室にいた。当時のお客さんには自身の解雇は話していなかったが、オフィスに入れたのはロンドンの直上の厚意によるところが大きい。

大阪の顧客と電話中だったところを、東京のこちらだけ大きな揺れが襲った。電話を切って少しして、建物地下の駐車場に停めていた自家用車にエレベーターを降り、車に乗り込んで帰路に就くと、すでに街中は帰宅困難者で溢れかえっていた。午後5時過ぎには家に到着、すぐ保育園に行って2人の子どもを引き取った。この間、妻の職場に電話しても出ない、向かいのS家夫婦(共働き)も帰ってくる気配がない。お隣さんの子どもは娘2人で、同じように隣の保育園にいたので、延長時間ぎりぎりの午後7時になって僕が迎えにいった。出てきたのはさく子先生。僕のことを(もちろん)覚えていてくれたのが大きい。事情を説明して引き取り許可をもらい、難なく2人の娘さんをうちに連れてきた。

夜10時を過ぎるころから、とっこ、S家の夫婦がばらばらに職場から歩いて帰ってきた。一番遠かったS家旦那さんは4時間くらいかかったらしい。全員の顔が恐怖(と寒さ)に青ざめていた。翌日は土曜日で、原発が爆発したのを機に夜からとっこの実家がある大阪へ車で逃げたのだが、午前零時を回ったところでようやく名古屋。これまでお世話になっていた知人の家に一旦避難してから、大阪へ向かいことになった。ただ、この時に「逃げた」という負い目として自分の心に引っ掛かり、3年後の2014年6月にS家旦那さんの実家がある宮城県を訪問することになった。

東松島の海岸沿いのグランドに、高さ10メートルほどの野球ネットがある。緑色が海の青さに映えていたのだが、旦那さんの母から「このネットにね、遺体が沢山引っかかっていたのよ」と聞かされた。何事もなかったような語り口だったのが、あまりに印象的だった。娘を連れて行ったので、震災跡地を見せられて良かったと思った。なので、さく子先生といえばこの時の震災のことも思い出す。

さく子先生との交流はその後も続き、僕が退院した直後の今年10月初旬に最寄駅まで来ていただいた。出迎えたのは僕ととっこ。シンガポールにいた8年の間に数度東京でお会いしただけだが、時間が経つにつれて再会が嬉しくなる。

先生の人柄を現すのに、どうしたらいいか思案していたが、一番いいのは彼女のメッセージを、一部だがそのまま掲載することだろうと思う。その人柄は驚くほど真っ白だ(以下、改行もそのまま)。

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むしろ、たくさんのご縁をいただいて育ててもらったのは私の方です。
何よりも今の自分にさせてくれているのは、出逢わせていただいた全ての子どもたち、そして親御さんたちです。
全部ぜんぶ、子どもたちが教えてくれたこと、その一つひとつを保育現場、又は子育て中の親御さんに、お返ししていくお仕事をいただいています。
残された人生の中で、お返し仕切れるかしら?と思いながら
必要とされているときがその時と信じて、日々回遊魚の暮らしをしています。

何かをしてあげるのではなく、
親としてのありのまま、丸ごとを愛娘たちに見せていくこと
その中で、少しでもかじるものがあるとしたら、それでいい、それだけでいいと思うようにしています。
もちろん、いろんなビジョンがあっていいと思いますが、私は限りなくシンプルなあり方を求めて生かされて生きています。

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(井上さく子先生からご了解いただき、本名でメッセージともども掲載した。写真は2018年10月31日、シンガポールのインターナショナル校でのハロウィーン。向かって左でバナナの着ぐるみに入るのは娘、右は僕。続く。)