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人生に乾杯 18 (新型コロナの社会的文脈)

新型コロナ(Covid-19)が第3派を迎えている。免疫が落ちている自分としては、遠出は気が気でないし、密になるのも嫌だ。そんな話を先日も山井大輔(医師で予備校時代からの友人)と電話でしてたら、人がすべからくかかる疾病について「社会的文脈」という言葉を教えてくれた。僕は脳腫瘍(膠芽腫)と肺に大腸がん転移の腫瘍が複数あるので、要はこの病気と新型コロナの個人的関わりについて、ということにる。少し長くなるが、読者にご理解いただくためお付き合い願いたい。

成田の病院に2か月入院。放射線治療、化学療法を受け、今は自宅から三田の病院に2週間に一度通院している。行くたびにアバスチンの点滴を45分くらい受け、ひと月一度は5日間クールの化学療法(テモダール服用)が加わる。一度に5日分が処方されるので楽は楽なのだが、飲んでいる分量は成田の時の2倍で、5日間はなかなかキツイ。11月9日に2度目のクールが終了したが、この時もかなりしんどかった。しんどくなる度に「長生きするため」という妻とっこの言葉を思い返し、乗り切っている。

放射線治療を除けば同じ治療を受けているので、体の免疫が下がる。免疫「力」は医学用語でないので注意が必要だが、体をウイルスなど外敵から守る血中成分が基準範囲より低下、または上昇してしまうのが原因、という理解を取り敢えずしている。僕の場合、血小板数が13万(11月4日時点)。下限値を下回り、10月21日の検査値15万6千よりも下がったことになる。好酸球は5.9%と正常値の範囲内に収まったが、10月21日は上限の6%を超えて13.6%もあった。今は新型コロナウイルスが流行しているので、僕の体は一度かかると重症化しやすい。幼少期にBCGは打ったし、新型コロナの症状が比較的軽いと言われる血液型O型(RH+)という仮説を信じたとしても、だ。

毎日毎日、子どもたちが学校から帰ると、気が気でしょうがない。娘はハイブリッドなので学校に行ったり家でオンライン授業だったりだが、学校から帰ってくれば消毒液を使わずに水だけで手をチャチャッと洗ってしまう。注意しても「ダイジョウブ!」で済ませる、さすが思春期。でもこちらはグシャグシャした気持ちにならざるを得ない。弟はまだ真面目とはいえ、2人とも10代だからかかっても軽症で済む。とっこはといえば、もともと風邪やウイルスに強い。しかし、僕はそうもいかない。毎年冬になると風邪を引き、ただでさえウイルスに強いと言えないのだ。そこら中のウイルスを着色してでも可視化したい。

友だちが最寄り駅まで来てくれるといえば尻尾を振って会いに行くし、そうした陰日なたの応援が自分を元気付けてくれるのは間違いない。シンガポールでの事業を日本でも興したいと思えば、税理士や司法書士にも会いに行く。が、よほど信頼できる人でなければマスクははずさないし、密になっている場所や、通院以外の公共交通機関利用も極力避ける。

実はこの信頼というのが曲者で、最後は自分の腹積り一つでしかない。「この人からウイルスをもらったらしょうがない」と思えるかどうかなのだ。

(「信頼」で、「安心」という言葉を思い出した。どちらも主語は「私」で、それ以外はありえない。2001年9月11日の米国同時多発テロ以降、世には「安全安心」という言葉が溢れている。「安全」は装置やシステムを提供する側の(ある程度)ロジカルな判断で、一方の「安心」はそれらを受け取る側の気持ちの問題。提供する側は「安全」は提供できても、相手に「安心」を強要はできない。少なくとも当時はそう捉えていた。なので、別々の意味の言葉を一緒くたにした「安全安心」を使うサービス提供者に僕は今でも納得できない。)

このように特定ウイルスや病気を自分の社会的活動との兼ね合いで捉え直すことを、少なくとも大輔の論法によると疾病の社会的文脈という、らしい。「哲学者のXXXも言ってたよな」などと、歴史上著名な、でも高校の社会科の時間にしか聞かないような欧州人の名前を出していた。僕は、さっぱり覚えていない。

恐らく、妻や子どもたちには彼らなりの社会的文脈があるだろうし、友だちや主治医にだってあるだろう。社会的文脈もひとそれぞれ、ということになる。それを社会的文脈という言葉で掴み取る、定義し直す哲学者の営みと大輔の歴史追走に、今流行りの「あっぱれ!」を送りたい。

(写真は2016年5月9日、海上自衛隊護衛艦「いせ」がシンガポール・チャンギ港に寄港した際、知人に招かれて行った時のもの。渡星前、東京での職場と留学先が一緒だった友達家族と合計8人でお世話になった。甲板下に格納される軍用ヘリにまたがる親子。左は息子(当時6歳)。続く。)