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人生に乾杯 19(季節の移り変わり)

7月半ばに成田病院に入った時、関東圏はまだ雨が降っていた。病室のベッドに寝転び、夜のニュースを見ては「明日はまた北総は雨か」とか「少し晴れそう」などと思いながら、翌朝を迎えていた。その間、妻とっこと家族は目黒時代からの、またシンガポールから日本に帰還した友達のサポートをもらいながら、今の都内自宅に引越しの準備を整えていた。帰国直後、僕が1人アジトでそれまでの数年借りていた港区の小さなマンションに、家族3人すし詰めになっていたから、自己隔離2週間後に解放されると思うことが唯一の安心材料だった。

8月半ばにようやく梅雨が開けて盛夏が戻ってきたが、秋までのほんのひと頃。外は猛暑らしかったが、僕は病室にずっといたので分からない。朝、昨夜までの当直看護師が交代時間になると、日勤看護師が汗を拭き拭きやってきて、「今日は暑くて通勤電車が大変だった」などと言ってくるので、それで外の天気が分かるくらい。が、直前までシンガポールにいた自分は、エアコンの効いた室内に慣れず、4人部屋の自室、共用スペース(Day Roomと呼んでいた)などフロアの行く先々で、10センチも開かない窓を「全開」して暑気を入れていた(シンガポールのRaffles Hospitalは窓が全く開かず、偶然にも開けて下を覗いていたところを通路反対にいた看護師に見つけられて叱られた)。熱気が入り込むので、周りの人はさぞ迷惑だったに違いない。

日記の8月9日の箇所には、僕がヨガに入ったDay Roomにいた女子高校生(?)のことが書いてある。「先客あり、ここ数日見かける」。午後2時過ぎごろだったと思うが「誰と話しているのか携帯の画面を見ながら楽しそう」。2、3日前の携帯電話の会話から、以前にも入院してことがあるのを知っていた。「しょっちゅう間食している」という記述もあった。確かに、アイスクリームや冷菓子などをバカバカ食べていたので、よく食うなあという感想はあった。でも本人は太っていなかった。さすが思春期。

入院前には「病院食はまずい」との認識があったので、いろんな食料を周りの人たちに相当支援してもらった(食料だけではなかった)が、それを間食したのは初期のころだけ。少しずつ胃の調子がゴネ出し、食欲が落ちていた。今でこそ抗がん剤と放射線の副作用だと分かるが、当時は「まずいのは米か」くらいに思っていた。もともと鶏卵が得意ではなく、ある朝、ゆで卵が出てきて食べた日は終日下痢をした。看護師にその話をしたら「無理して食べなくてもいいよ」と呆れられ、それから「完食」を諦めた。幼少期から「出されたものは食べないといけない」という教育を親から受けてきた習いに、53歳にして気付いたくらいだ。

今年は梅雨明けが極端に遅かった。猛暑が戻る季節になるまで気づかなかったが、8月も下旬になって日がかなり短くなっていた。それでも9月に入っても病院内はほとんど季節感がない。暑いのか寒いのか。医師、看護師、あるいは階下に降りれば外来患者、MRは汗を拭ったりしているが、自分はさっぱり分からない。出てくる病院食には、わずかに季節を感じさせるものが入る程度。そういえば、シンガポールの病院も季節感はゼロだった。あの国は、建物の中は冷房18度設定だからとにかく寒い。日本の冬でも日中は30度に達する。自分の個室は冷房を26度設定にしていたが、「この部屋暑くないの?」とフィリピン人看護師に訝しがられた。かつてはジャングル、今でも猛暑。聞けばまことしやかな理屈を捏ねるが、誰もがジャケットやカーデガンを羽織っていた国だ。季節感などそもそもないし、だからこそシンガポール人と言わず東南アジアの富裕層は、冬に雪を見に日本へ遊びにくる。

成田病院を退院し帰宅後、日本の季節は秋になり、食べ物が美味しい季節になった。キノコ、果物、野菜...アイスクリームでさえも、とにかく日本のものはうまい。種類も多彩だ。東南アジアのように単調になりがちな料理と異なり、8年ぶりに驚いている。

四季の変化、食べ物の変化と病気の関係はどうなのだろう?と考えてみて、それは「疾病の社会的文脈」(前号紹介)で語るべきことだったと気付いた。

(写真は2019年11月29日、バリ島へ仲良し家族と行った時に茶畑の前で撮影。画像で見るより、木々の緑がバリの空に映えていた。パノラマ撮影だと誰が誰だか分からないが、だいたい皆写っている。続く。)