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何者にもなれなかった女が母親になることで何者かになれたのか

前記事からの派生

結論から言うと、新生児育児中や頻回授乳中などの「なかなか自分の時間が割けない」状況のときは何者かになった気でいたと思う。
が、頻回授乳も落ち着き(とは言えまだ8回は授乳している)ほんの数十分の何かに充てられる時間や精神的余裕が出てからは、結局母親というものは自分を何者かにする役割を持つステータスにはなり得なかったな…って。

「母親」って、あくまで自分の側面のひとつであるだけっていう。
我が子はまだ生後7か月なので「母親でいること」を知った気になって断定するにはまだ早計なんだけれども。


ちなみになぜ、何者でもないというコンプレックスがあるかと言うと、人に誇れるキャリアがないことが大きいと自己分析できるんだけど、究極はそこじゃない。
不健全な自意識が強いのと、自己実現の経験のなさによる焦燥感だと思っている。
そしてそれは、自己肯定感が低いことが原因だから、何かしらのキャリアがあろうとその時の自分に充足感がなければ「今の自分は何者でもないな」と思っているはずなので、この問い自体に何の意味などないこともわかっている。
わかっているのに、実体のない「何者」かになりたい自分を止められない。

そんなわけで「じゃあ何をもって何者になれるの?」と問われれば答えられない。
「母親」でいるだけで「何者」かに当たるというのも正解でいいのかもしれない。
と言うか、そもそも何者かでいなくちゃいけないわけでもない。

「何者でもないと悩む時間」の反対は「何者かになった自分」ではなく「何者かと自分に問わなくていい時間」なんだろうなと思う。
例えばその「何者かと自分に問わなくていい時間」のアンサーが「充足感」にあるとして、乳児を抱えて充足感がないことってあるのかな?

思い返せば何者でもない自分の赦しを乞うように母親になろうとしていた。
批判されて然るべきなんだけど、母親にさえなれば社会的な還元なり貢献をできるような気がしていたし、出産・育児という大仕事に従事すればキャリアのなさを多少払拭できるだろうという浅はかな目論みもあった。
我が子が産まれてくれさえすれば、自分のような何もなし得なかった人間でも、愛を火種にして体力がないながらも乳児を育てられるのだろうし、メンタルが弱くても子どもを心の拠り所にできるだろうと。
それは、半分合っていて半分間違っているように思う。
そもそも我が子を自己実現の道具にすること自体も何だかな〜…だし、第三者からの浅い視点から見れば「毒親になりそ〜」って感じ。

子どもの力は実に偉大で、自分の存在そのものを否定することはなくなった。私がいないとこの子は生まれない。
問題は子どもの有無じゃなくて、子を産むような歳になり、その決断に至っておいて自意識や自己肯定感の問題を置き去りにした自分が悪いのだ。

子どもの成長は早い。小さくて、寝るか泣くかしかしていなかった新生児が、半年も経てば喜怒哀楽を見せて元気に寝返りする。
今は母親として、常につきっきりですべての世話をしなければならない。世間的にも、乳児の母親をしていると言えば、私には重要な役割があるとみなしてくれるのだろう。
しかし、我が子はいつまで私に「つきっきりで世話してくれる母親」という役割を持たせてくれるだろうか。産前の私は、その辺の想像がまったく及んでいなかった。

身も蓋もないのだが、子育てしながら歳を重ねれば些事になる気がしている。
そして、私のような、他者を通してしか自分を見れないつまらない人間だからこそ、我が子に見せたい姿を考えれば、そこに成長のチャンスがあるのかもしれない。
例えば、これまでのキャリアは変えられないけれど、子どもの前では常に学びを忘れない姿を見せたい、とか。


多分、子どもを持つことを考えている人や妊婦さんの中には、自分の自信のなさをかき消すように、子どもを持つことの意味を重く受け止める人もいるかもしれない。
それは間違ってない。もしかしたら産んだらそんなことどうでもよくなるかもしれないし。
でも、その気持ちが絶対に消化されるわけではないかもしれない。子育てとか母親とかの役割を神格化しすぎると、のちのち苦しくなりそうだな…と、産後7ヶ月現在は思っている、という個人の記録でした。

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