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私をいじめた女が幸せな家庭を築いてた

もうすぐ1歳を迎える娘を育てている。
この話は妊娠中のできごとを思い起こして書いている。

私は小・中学校でいじめに遭っていた。
おそらく、いじめには、相対的に見れば大小があるのだろうが、当時の私はとてもつらかったので、自分の中では大きないじめだった。
そして、いじめの理由についても、彼女にとっては些細ではなかったから私をいじめたのだろう。


妊娠中は身体が不自由だから、暇を持て余してスマホをいじり倒して遊んでいた。
ふと、小・中学時代の同級生は何をやっているのだろうと、何の気なしにGoogle検索やInstagramに本名を入力していた。
私のいじめに加担した数人の動向は、実家が田舎ゆえに親から聞こえていたりもしたが、最古のいじめメンバーである女だけは消息が掴めていなかったことを思い出して、彼女の名前を入れてみた。

そこには、とある自営業者と結婚して、彼女自身もその事業の主たるメンバーとして懸命に働いている姿が、事業名義で運用されているInstagramにあった。
家族経営ではあるが大きな取り組みをしていて、10以上歳の離れた配偶者と結婚して、働きながらも娘を育てていた。
待望の嫁だったらしく、義父母からは大層大事にされていることも、Instagramからわかった。
その事業そのものが、一般的には社会貢献度の高いもので、いくつか彼女が取材された記事や寄稿した文書が見つかった。
Instagramのコメント欄には、彼女の活動を応援したり、彼女の生活や働き方を羨んだりする文言が寄せられていた。

それを見たとき、みっつの感情が私を襲った。
ひとつは、私が昔見た彼女の人間性や私に浴びせた言葉と、今の彼女の生活とのギャップへの驚き。
ふたつめは、得も言われぬ、どうしようもない、悔しさ。
みっつめは、自分の浅ましさへの軽蔑と、彼女に対する安堵。

彼女が表に出している情報と、昔見た姿があまりにもちぐはぐすぎて、理解が追いつかない。
どうやら彼女はその事業を通して、ずっとやりたかったことができているようで、水を得た魚のようにどの写真も生き生きしている。

これを見て、私はどうなりたかったのか?
少しでも、彼女に不幸になっていてほしかったのだろうか?
もしかして私は「いじめるような人間など、ろくな人生を歩めない」なんてことを、期待していたのだろうか?
妊婦特有の繊細さと無意識の驕りのようなもので、幸せを実感したかったのか?
だとしたら、なんと浅ましいことか。

彼女の小さな娘が、彼女の仕事をお手伝いしている様子がInstagramに収められている。
この子は今、彼女にどんな育てられ方をしているのだろうか。
この子も、あの日の彼女のようになるのだろうか。
もう20年も前のことがフラッシュバックする。

改めて、私は彼女がその事業に心血を注ぐ様子や、彼女の娘と夫と義父母からなる家族の様子を見て、自身の浅ましさを自覚するのだった。
たしかに不幸になっててほしかった。私を不幸にしたバチが当たってほしかった。因果応報があるのだと証明してほしかった。
私がいじめを受けたとしても、今に至るまで正しく生きたという実感がほしかった。

しかし、妊娠中の私にはもう一つの命が宿っており、他人の不幸を願う浅ましい人間の子供になってほしくないと、直感的に思い直した。


それと同時に、家族に恵まれなかったあの女が、幾度となく問題を起こしてもただひとりの家族であった母親にすら見向きもされなかったあの女が、家族に恵まれてやりがいを見つけたことが嬉しかった。
彼女の娘が、誰かを傷つける人間にはなりませんように。
私が、誰かの不幸を期待して溜飲を下げるような母親になりませんように。
私の娘が、まっすぐ育ちますように。
彼女の幸せが続きますように。

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