見出し画像

児相3日目。「距離」

 人と人との”距離”はとても重要で、その感覚がズレてしまえばたちまちそこにある関係性は形を崩す。身体的な距離が近ければ心は離れようとするし、精神的な距離が近ければ体は離れようとする。もちろん逆も然りで、身体的な距離が遠ければ心を近づけるし、精神的な距離が遠くなれば体をどこかに寄り添わせたくなるのが人間なのかもしれない。まるで、都会と地方の違いのようなその距離感は社会を生きる僕たちにとって、気づきづらいけど大切な感覚だ。

彼女は、挨拶した僕に体を寄せた。おもむろに二歩か三歩ほど僕に近づき、小さな声で名前を口にした。きっと、その二歩か三歩で僕との距離感を測ったんだと思う。もちろん、そんな計算は彼女の中にはなくてどこかに置き去りになっていた心がそうさせたに違いない。

日常の中で距離感を失うことはたくさんある。友達を繋ぎ止めるための距離とか、子どもを束縛してしまうような距離とか、知らぬ間に離れていたような距離とか、学校では教えてくれないこの感覚は、どれだけ人と関わり、どれだけ感情とぶつかり、どれだけ向き合ってきたかで変わっていくもので、よい例なのかわからないけど、お客を落とすNO1と呼ばれるような人たちが持っているあの絶妙な距離感、手が届きそうで届かない、手が届かなそうでかすかに届くあの絶妙な距離感は、経験値の賜物でしかないんだけど、むろん、子どもたちにはその感覚は備わっていない。

画像1

僕は、透明になることで距離を消したいと思っている。子どもたちに近づこうが離れようが透明であるのなら子どもたちは気負わない。春に吹く何気ない風のように、秋に吹く生暖かくて少し冷たい風のように、ふわっと子どもたちを包み込んで次の季節への仕度を自然と促したいと思う。そのためにはこの”距離”というものを最初に探ることが必須。「こんにちは」の挨拶ですべてを感じ取り、距離を見つけ、そして距離を処理して消していく。

基本的に人は自分の心地のよい距離を取ろうとするんだけど、相手にとってそれが必ずしも心地よいとは限らない。だからこそ、親は子どもを苦しめるし、夫は妻を、妻は夫を苦しめて、上司は部下を苦しめ、部下は上司を苦しめる。

世の中すべての関係の距離が丁寧に上手に修正されたらきっと、社会が心地よくなるのにって思うんだ。

今日も終わり、もう少しでまた明日が訪れる。

彼女は今日もきっと、人との距離を測り続けたんだろう。明日もまた誰かとの距離を図るんだろう。時には数少ない経験で距離を計るかもしれない。”はかりかた”は様々だけど、きっとたくさんの辛い経験やその中にみつけた楽しい経験が、彼女のこれからの人生の距離を作っていくんだね。

離れたくないけど、離さなければいけない時がある。

離さなければいけないのに、離したくない時もある。

どうしようもなくなった時に、彼女は誰かにハグをする。いつか、どんな人とでもハグができるように、僕は今日もまた透明になる練習をさせてもらっている。

いつも読んでくださりありがとうございます。いろんなフィードバックがあって初めて自分と向き合える。自分を確認できる。 サポートしていただくことでさらに向き合えることができることに感謝です。