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Short Story:兎、食べちゃいました。

小寿朗は神戸で見初めた彼女のことが忘れられない。大学を卒業して東京で勤め始めた。働き出して数年後、通路で彼女に出会った。同じ会社に勤めていたとは思いもしなかった。

彼女は同僚と急ぎ足で何食わぬ顔で通り過ぎていく。小寿朗は後ろ姿を追うことしかできなかった。彼女は擦れ違うとき、右手を軽く挙げ、指を揺らして挨拶していった。

僅かな希望を持ちながら、会社に通勤する。部署も違い、勤務棟も違うので、彼女に会う機会はなかった。しかし、辞令が降りた。部署こそ違え、同じ勤務棟だった。出会う機会も多くなり、彼女の方から食事を誘ってきた。グループでの食事会だったが、小寿朗は密かな希望を抱いていた。

会食が終わり、彼女は「一緒に帰りましょう」と誘ってきた。一も二もなく、小寿朗は承諾した。それ以来、どちらからともなく、機会があるごとにグループで、二人だけで食事した。しかし、二人だけで食事していることは内緒にしていた。

彼女は仕事能力が高く、分野も芸術関連に詳しく、得意だった。彼女に海外出張命令が下りた。約1ヶ月の期間だった。彼女は小寿朗の部署にやってきた。一緒に食事しても住所のやりとりはしていなかった。電話で話せる内容でもないと考えた彼女は昼休憩直前に部署にやってきた。皆が見守る中、彼女は切り出した。

「私、兎を飼っているの」「海外出張の間、兎の面倒を見てくれない?」
彼女の希望を伝えた。皆は興味を示したが、昼時とあり、三々五々、事務所から出て行った。

(兎の面倒を見る?)自信はなかったが、小寿朗は一も二もなく承諾した。

小寿朗は兎が食べないのには苦労した。(俺の世話が受けられないんかい)とは思わなかったが、なんとかして食べさせていた。

彼女は帰国予定日になっても帰ってこない。(仕事に手こずっているのか?)そう思っても兎の面倒は見なくてはならない。(また、食べてくれない)小寿朗のストレスは高じていた。

海外出張から帰り、彼女は真っ先に小寿朗のオフィスにやってきた。「兎は?」と突然尋ねる。(会社で世話しているんではないから)そう思った小寿朗は思わず、悪ガキ言葉を使った。

「食べちゃいました」

それを聞いたさっちゃんは卒倒した。

「さっちゃん」

皆は小寿朗が「さっちゃん」と呼んでいることを初めて知った瞬間だった。小寿朗はさっちゃんを思わず抱き起こす。さっちゃんは気がつくと立ち上がり、一緒に立ち上がった小寿朗の胸を両手で叩く。

「なんてことするの」

さっちゃんの目から涙がボロボロ。やり手会社員の面影は微塵もなかった。自分の悪口の所為なのに、小寿朗はさっちゃんを労る。

「食べてなんかいないよ」

再び、さっちゃんは小寿朗の胸を強く叩く。

その様子を見ている皆は感づいていた。(二人は付き合っていたんだ)

やがて、二人は自然の流れで結婚し、兎が亡くなる前からマッサージが罪滅ぼしの慣行となった。

兎が亡くなり、ハリネズミがやってきた。ハリネズミのリキはよく食べる。さっちゃんはリキを可愛がるが、世話は小寿朗がする。リキの世話の後には、マッサージが待っている。これでいいのだ。

---完