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母の語り草:「食べんかったいね-」あるいは救荒食のサツマイモ

画像:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A2#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ipomoea_batatasL_ja01.jpg から。

「食べんかったいね-」

戦中・戦後しばらく、食べ物が不足していた。九州にいたので、時季が来れば、サツマイモが収穫できる。食糧不足の中、コメの代用食としてサツマイモが食べられていたが、母はなんとかして子供にサツマイモを食べさせようとするが、なかなか食べてはくれない。相当苦労したのだろう。事あるごとにその経験を妻に語っていた。

なぜ食べなかったのか、偶然の読書で分かった。驚いたことに、当時のサツマイモには「沖縄100号」と「太白芋」があるが、「太白芋」は戦前から関東地方で生産されていたので、食べさせて貰っていたのは「沖縄100号」であろう。この品種は、昭和18年には450万トン(農水省の統計)も収穫されている。全国で食べられていただろう。

「沖縄100号」は1934年に沖縄で開発され、開発の背景から、多収品種である。「沖縄100号」の特徴は、大型で、水っぽい性質を持っている。この水っぽさが不味さにつながっていたのだろう。

当時は不味さを言っていられない状況にあったのに、配給で手に入るサツマイモを、なんとか子供に食べさせようと努力し、工夫もしただろう。料理上手の母も為す術がなかったのかもしれない。

サツマイモを庭で栽培したとき、妻が母の嘆きと苦難さを伝えてきた。