夾竹桃の花⑨ 植物図譜
気分が優れないのか、彼女は紙パネルも出さず、カーテンも開けない。喧嘩したわけでもなければ、言い争いをしたわけでもない。学期末の忙しさと気ぜわしさに気になりながらも、心は騒ぐが、目の前の試験をこなしていく。
高校も定期試験が終わり、春休みになっていた。久しぶりに紙パネルが出た。
「そっちに行っていい?」
「いいよ。」
戸惑いはあるが、紙パネルで返す。
彼女は普段着で来ていた。着古してはいるが、清潔感がある。
「来年度は受験勉強じゃろう。どんな勉強したのか、知りたいんよ。」
質問が紙に書いてあったので、分かるところだけ答えた。
「ふーん・・・もうちょっと優秀かと思っとったんよ。」
「できるのは英語だけじゃけー。ギリギリじゃと思うよ。」
「そうじゃろうね。」
小さく笑いながら、からかうように言う。
「英語だけでもえ--よ。」
どうしても彼女には気圧されしてしまう。
「明日買い物行くじゃけんど、付いてくる?」
身体を押しつけながら、いたずらっぽい目で促す。
「ウン。」
声がうわずっている。
ーーー
翌日、一足先に出て、御幸橋で待つ。彼女が御幸橋までやってきて、欄干にすがる。二人並んで川の流れを見る。
「川が好きなのね。」
ささやくように言う。
「ウン。」
「なんでも流してくれればいいのに。」
彼女のつぶやきが頭の中で反芻する。
「何を流すん。」
「ううん。なんでも。」
彼女は欄干に背を向けると、薫風を思わせる風を受け止めるように目をつむり、顎を小さく上げる。髪が長くなくてもそよぐ風に揺れる。
「今日は参考書を買いたいの。それと植物の本。」
空を見上げながら、話す。声にいつもの張りを取り戻してはいないが、先に歩き出した。
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薫風に 髪誘われし 君なれば 夾竹桃の 花も咲くらん (4月初旬作)
ーーー
電車に乗ると、いつものように身体を寄せて小声で聞いてくる。戸惑う拓を楽しんでいる。
「丸善、好きみたいじゃけど。よく行くん。」
「立ち読みなんじゃけど。」
「ふーん。」
また聞いてくる。
「植物図譜、知っちょる?」
「名前くらいは。」
知らないので、口ごもっている。
「後で見せちゃる。」
革屋町電停で降りると、すぐ右手に丸善が見える。
本を読んでいると、彼女が参考書と少し大きめの本を持ってきた。
「行こう。」
男のように話す。会計を済ませて、表に出ると、斜め前にあるアンデルセンを指さした。再び、男口調で、
「今日はあそこに行こう。」
彼女が先に立って歩く。
「アンデルセン」はパン屋であるが、デンマークの童話作家(ハンス・クリスチャン・アンデルセン)が童話を通じて世界の人々に夢や希望を与えたように、パンを通じて豊かな暮らしを届けることを目指していた。通りに面して喫茶部門を設けている。
アンデルセンに入ると、淀みなく注文する。彼女の母親が友達とよく来ていおり、彼女も母親と来ているらしい。注文が終わると、彼女は買ってきた本を取り出した。
「『植物図譜』なんよ。」
本を広げ、熱っぽく語る。よほど植物が好きらしい。確かに、植物が綺麗な画として描かれている。植物画だった。
「綺麗じゃろう。」
彼女は自慢げに話す。植物が好きばかりではなく、詳しかった。
「ボタニカル・アートとは違うんよ。」
確かにアートではなさそうだが、図譜一つ一つが明細に描かれていた。
「昔からこんな方法なんよ。」
店を出て、帰りの電車に乗っても植物画を一つ一つ説明するが、声を落としているので、聞こえるように、戸惑わせるように、身体を寄せてくる。彼女の感触と体温が伝わっているので、頭に入ってこない。
電車を降りると、いつものようによそよそしくなる。距離を置いて歩いて帰る。途中で、近所の人なのか、軽く会釈している。いつもの彼女に帰っているようで、どこか安堵の胸をなでおろした気分になる。
ーーー続く⑩