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マルがいた日

※標題画像:「スタジオそら飛ぶ」https://livedoor.blogimg.jp/soratobuinu/imgs/f/3/f345b61d.jpgから。

マルがいた日

戦争が終わり、食糧難が叫ばれた。復員した父は、戦友の話に乗って、郷里ではない九州・宮崎県高鍋近くの農村で、家族を連れての農業を始めた。古い家に住み始め、庭は比較的広いが、密な雑草がおい茂っている、まるで芝生のよう。

父には姉(叔母)がいた。その叔母は移住してアメリカで生活していた。戦後まもなくして、アメリカからいろいろな物資を送ってきた。九州の田舎では手に入らない子供服も送ってきた。真新しい服を着て町の写真館で写真を撮らされた。

その写真を母が父に代わり、送ったのだろう、折り返しで、アメリカの息子(従兄弟になる)の写真を送ってくれていた。写真には、従兄弟がボンネットの丸い自動車の側に立っていた。自分よりも6個以上も年のように見えた。その当時、自家用車という言葉も知らず、自動車のことさえ眼中にないし、意識して知っているのはバスだけだった。

送ってきた中で、極めつけは犬だった。検疫があるので、アメリカから送ってきてはいないはずだが、国内の業者を通じて送って来たらしい。

犬は「マル」と名付けられたようだ。父母が「マル」と読んでいた。自然と子供達もマルと呼び、土間に置いていた犬小屋近くで遊んだり、芝生のような庭で遊んだり、じゃれ合っていた。マルは茶色いキャバリアのような犬だった。元気で、陽気で、よく遊んでくれた。

畑にサツマイモを植えていたが、掘り出しに行くときにも付いてきていた。芋づるに鈴なりの芋をかざして父母に見せた。マルは父母のところまで飛んでいく。知らせ終わったと思うのか、再び帰ってきて周りをうろつく。

掘った芋を持って帰り、井戸のポンプで水を出しては洗うが、周りでマルが走り回る。側にはドラム缶の風呂が設置されていた。何事に付け、マルは関心を見つけては、存在を示す。冬でも、裸足で木登りをしていると、木の下でクルクル回りながら走る。そういえば、霜柱を素足で踏み潰したっけ。冷たいが足が熱を帯びたように温かくなる。

竹馬がブームになった。高い竹馬を拵えて、家の庭の横で、小さい子供の背丈ほどの高さの土手に上がる。マルは土手に這い上がろうとするが、ズルズルと滑り落ちる。飛び上がるには高い。竹馬に足を掛け、歩き始めると、マルは側を歩いて行く。すぐ先を行き、さらに行く先を目がけて走って行く。竹馬では追いつかないが、そのうち、マルはクルリと向きを変えて戻ってくる。

近所と言っても、田舎のことで、少し離れており、蓄音機があるから来いと言われて行った時も、マルは付いてきていた。分かりもしない音の出る機械はマルにとっては、興味がなく、終わるのをひたすら待っていた。終わって家に帰るときには嬉しそうに並んで歩く。マルにリードらしきものが掛けられたことは一度もなかったように思う。

小学校に上がり、学校から帰ると、密な雑草が茂る芝生のような庭で遊んでいたマルが飛んでくる。直前で飛び上がる様は、まるで宙に浮いているようだ。その嬉しそうな笑顔がくっきりと記憶に残っている。そんなことが小学校の1年生の夏休みまで続いた。

2年を過ぎた辺りで、母が反乱した。母の父は電気技師だった。東京で教育を受け、発電所建設に携わったことがある。
「こんなところにいては、子供に教育できない。」
「お父さんの郷里でもよいから帰りましょう。」
母は父が肯定するような地域を選んで主張した。
食糧難も治まり、父も最初の考え通りにはいかないと悟った頃だった。

父の郷里に帰ることになったが、マルは連れて行かないと決断したらしい。父は近所の親しい人に相談し、マルの引取先を見つけようとすると、すぐ見つかった。マルは性質のいい犬だと評判だったらしい。

子供は父母に促されるままに、父の郷里に帰り、マルとはそれっきりになった。思い出すことはあったが、父母がマルの里親を探してくれたことに安心を覚えており、その内、マルは頭の片隅に居座った。

ーーおわり:あのこはたあれhttps://note.com/tsutsusi16/n/n07bc823bc368