自分/相手の世界観に目をこらす楽しさ

近しい人間ほど、日常の変化が少ない環境ほど「相手と自分」とは同じように世界をとらえて、考えて動くだろう…という勝手な思い込みが湧きやすいように感じる。
そもそも、1人1人が自分の経験に基づく小さな世界を抱えている。その常識に基づくもののとらえ方をする。その中で自分の世界は強化されていく。
この圧倒的な世界観の違いを背景に現実を見ているし、会話をしているのだから「すれ違い」が当たり前。むしろ言語を通して日常が成り立っていること自体が奇跡…くらいのものだと思う。

この前提はありつつ、「世界観」ユニークかつ周囲に有益であれば相手にメリット・ギフト・プレゼント・貢献ができる…のだろう。
今ビジネスマンの中で再現性・戦略性を超えたアートやセンスといった言葉がフィーチャーされている背景にもこうしたものがあるように思う。

また、属する地域や集団によってある程度その世界観は共有されている。
その共有しているものの姿こそ「文化」や「風土」だったり、構造主義がいうところの「構造」だろう。
安直な理解だけど「案外無意識にこの『構造』を享受し、それに基づいた判断をしていて自分の自由意志の範囲って思ったより小さいよね?」といった主張ってすごくその通りだな…と思った。

相手と対話をするとき、「相手の世界観はどんなものなのだろう?」
 純粋な好奇心と差異を受け入れる・互いに楽しむ寛容さ・尊重が豊かな世界を開いてくれる

寛容の精神や表面的には見つけづらい相手の世界観を深堀する姿勢、さらには洞察力、そのうえで見つけた相手の魅力への感受性が試される。
コミュニケーションとは言語でやっているようで実は非常に奥深い。

音楽と読書はそうした意味で似ているのかもしれない。
伝えたいことを文字・文章に落とし込んで(圧縮して)後世に残したものを解凍して読み解くには僕らも彼らが書きたかったことを斟酌するために、背景を読み解かないといけない。そうしてはじめて言わんとすることが伝わってくる。
音楽も譜面から解釈し演奏へ、さらに演奏が聴き手によって解釈される。
こうした解凍と感受のサイクルをなんども経ながら、その魅力・輝きが残すべきものとして後世へ紡がれていく。

これが健全な「時の試練」だっただろう。
今新しいものがどんどんと出てくる中で、温故知新といった古いものを訪ねる機会が減ってはいないか…コンテンツ供給過多の世界とは実はこうした断絶を助長しはしないか…
と若干気になる。そもそも自分がそうなのではないか…と。

動物の感覚器官は差異に反応しやすい。自分のこともただそこに「有る」だけではうまく認知できていないことが多々ある。相手との刺激を通して自身の世界観の輪郭や軸が見えてくる。自分が思っているほど自分は自分のことを認識できていない…

そんなことをつらつらと考えた今日でした。


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