「豊かさへの欠乏感」と「地域の文化」について

鈴木大拙著 禅を読み進めながら、本の内容とは関係ないのだけど頭が活発になって考え出したことを書き出してみます。

生活の中にある個人の体験と土地性をもった文化醸成へのつながり
私が、今までの人生で、田舎、地域のありように触れ、その土地で活き活きと生活する様にあこがれて今、地域の経済性に貢献しようと働いている。
果たして…今この働きようではたしていいのだろうかという問いがある。

現代、たとえそこで生きてい要と、1次生産者でない限りはその土地の土を離れて、僕らは土地性と脈絡のないことで大半の生活の糧を得ている。土を耕し、空を見つめて周囲との対話の中で、限られた選択肢の中で必死で生きていた…その中で作られてきた僕らが想像する「歴史・文化」とは大いに異なるパラダイムにいる。突き詰めれば「別によそでも生活できる」のだ。

この自然との対話の中にある生の躍動・原体験は世代を超えて共通していて、だからこそ原体験をもとにした経験談が継承され反芻され、地域文化醸成の原動力になってきたのではないかと思う。それを発露させるとき、祭りや信仰など祝祭性(←よく理解していないけど落合陽一が使っている言葉のニュアンス借りている。節目節目でのハレ…の行為)をもって具体化される…と。
原体験が通底しているからこそ、行事ごとで象徴的に圧縮されていても先達の経験を追体験できる。この「生の躍動」の共有(シェア)と継承にこそ「精神的な豊かさ」があり、文化の原動力になっているのでは?

私たちは「精神的に豊か」か?どうすれば?
我々に内在する豊かさは果たして今どこにあるのだろう。
仕事と余暇の双方にグローバルな均質化が進み、パソコンに向き合う仕事が増えYouTubeや造成済みのコンテンツに浸っている割合は増えているはず。これはどこか満たされない焦燥感を掻き立て、満たされない代替行為としてコンテンツをむさぼる循環・消費になり、人生の積み重ねによる豊かさの消失につながるんじゃないだろうか…以前は庶民生活にこそ文化的源泉となる源太源があったとする今までの仮説で考えると、これは文化的ジェノサイド・壊滅に近い状況だろう。

それでもある程度物質的に不足なく生きていけてしまう…のもこうした流れが助長されている一つなのかしら。自分が望む未来に対して、現状の様々な条件下でもがき、光った人が非常に称賛される世の中。己の内在的な豊かさを獲得するために、過酷な条件下で必至こいて生き抜く…ではなく「望む未来」の設定とそれに向けたありようが重要になっている。

少し仏教の「天界」みたいだ。
人よりもすごく長い生を受け、望みは何でもかなってしまうけど、それでも悟りに向けて修行をし続ける世界。
苦しい現状の中で信仰を保つよりも、何でもかなって快適ななかであるべきにまい進する必要がある…より難易度が高い世界に我々はいるのだろうか。着想だけどディオゲネスの教えになにか光明があるのかもしれない…

土地性が乏しくなっていくことと観光
仕事との関係性の話に繋げると、今の地域の観光が、その土地の個性を武器に差別化しなければならないとなったときに、悲観するとその足元の弱さにさみしくなることがある。その土地の文化・歴史性を売りにしたところで、その土地ではもはや文化が再生産されていないのだ。再生産の原動力たる共通の体験が生活の中に枯渇しているから。「残り香」にすがって観光を作ろうとしている今、それは強く言えば欺瞞ではないのか。
→いや。。。冷静に考えると「現代版の体験」は再生産されているはず。それと過去「歴史文化が醸成されたころの体験」が離れてしまっているから必要とされていない…ことが問題?乏しくなりゆく文化の再生産には新たな「必要性」の再定義が重要。それを「観光業」が光を当てられるか。
→いやまて、以前の歴史文化の再生産が起きた必要性と、経済的必要性には月とスッポンで気質が全然違う…これは健全なのか…このあたりの答えはいったいどこに?

対比として自分たちの地域の個性・独自性をismとして継承し、生活に残している地域が観光で成功しているのだろう。ヨーロッパ圏がそうした見せ方はうまいように思う。どうやってるんだろう?
→歴史・文化の「体験としてのありさま」ではなく、その奥にある個性・独自性を汲み取るところまでやって、そこをブラさなければいいのか…
ここまで「地域を残すため」に「自分たちの大切なもの」を恣意的に表現してはたしてそこに「生の躍動」はあるのか?
①地域の持続性確保という課題→観光振興→それに用いるための文化という文脈と②個人の精神的豊かさの欠乏→地域文化の固有性が貢献しうる→地域文化の消滅というアンビバレントの解消のために地域文化に光を当てなおす
この2つの文脈を一緒くたに語ってたから混乱しっちゃった…でも両者はおそらくこの点ですれ違っているのかしら?

総括的な・周辺にある議論的な
まあ、いずれにしても、その土地で生きることの「生の躍動」を汲み取ることは欠かせない。それが遠くの人が見たときに結果「他との差」を感じさせる。プロダクトアウト、であるのが自然だろう。この土地の「生の躍動」の熾火はどこに残っているのだろうか。それを次へ火継ぎで切るのだるか…

それが僕の問い…なのかもしれない。

個々人に内在する原体験の違い、個のアトム化の先に各個人が背景として抱えている世界観は指数的に多様化しただろう。一方でそれは豊かだったのだろうか?
先達と外的環境があまりに変わり、パラダイムがコロコロ変わり、世界観を受け継ぐことが出来ず、それこそ真空をあてどなくさまよう原子のように歴史・文化との脈絡の中で自分をとらえなおすことが出来ずにいる個人も多いだろう。

「翻案」と「再編集」
雅楽の「越天楽今様」だって僕が知っている一番古めかしい日本の音楽だけど「今様」=「今風」で当時の流行に合わせて再編集されている。明らかに歴史・文化の重要性は高まっていている一方でそれは再生産されておらず、今のままでは「必要性」も喚起されぬまま「断絶」してしまう。
それは地域が荒廃するとの同じくらい怖いことだ。だからこそ再編集がひつようなんだろうな…。
残ってきたものはその価値を連綿と「残すべき」として紡がれてきたからこそ。時の試練をかいくぐってきたものへの経緯をもって、次世代へ移しゆく。今が正念場なのだ。個人としての私の感性を研ぎ澄まし、全身全霊をもって紡ぐ…そうありたい。

自分≠他者は大前提なのだが、自分のちかくにいる人ほど自分の世界観が他者とある程度一緒のはず…と仮定してしまいがちになるのが人間の性質だろう。でもその近くにいる人でさえあまりにも世界観が違う。
その中で「相手の世界観を許容する」こと、「自分の世界観を再認識し受容する」ことの2つが際立って強調されるのも非常に納得がいく。

ツイッターの荒れようをニュースを通して見ているとおそらくこんなところが根っこにあるんではないだろうか…
そんなことまでつらつらと考えた日曜の午後でした。

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