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日記#74「寿司肉すき焼き寿司手巻き寿司寿司鍋オードブル肉肉肉」220101

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・(今日はネガティブなのであんま読まないほうがいいです)



・昨日から今日にかけて見飽きたな。大晦日のSNSにこれ以外の飯の写真をあげることは禁じられているらしい。日本中の舌が似たような味を堪能していたと考えると不思議な気持ちになる。味の類似は、感じる幸福の種類も類似しているのだろうか?

・新年早々微妙に精神のバランスが良くないな。元旦の「弛緩しなければならない雰囲気」が、今年は何か強い違和感になってしまって、なかなか手放しにだらだらすることもできないまま、だらだらしてしまっている。行動と精神のバランスが少しずれていて、全然楽しくないぜ。

・食べるものや過ごし方のベクトルを強要されることは思いの外しんどい。例えば雑煮を食べる行いは風習として引き継がれているのだろうが、「正月だから食べるのか?」「正月気分を味わうための儀式なのか?」としか感じられない。だって雑煮なんて食べたくないし。食べたくなくない? 雑煮って。好き嫌いの問題で言ってます。

・思い思いの明けましておめでとうを見すぎて、疲れてしまったぜ。交われないねえ。ぼかぁ明けましておめでとうを言える人間と交わることができないっぽい。

・でもまあ、挨拶を演技してすること、できるように擬態することはギリギリできる。でも手放しで明けましておめでとうとSNSに投稿することは、やはりできない。なんで? 何が原因でそう感じている? そもそもSNSに明けましておめでとうと投稿することとはどのような行いなんだ?

・今日は一日まったくグルグルしている。イオンに買い物に行った。みんなそれぞれの元旦の顔をしていた。彼らはどのような元旦を、今この瞬間過ごしているのだろうか? こうした呪詛の赤ちゃんのような文章をしたためている人間は少ないだろう。

・以前から「くだらねえと思うこと」と「物事を否定すること」はイコールではない、と考えている。こんなテレビ番組存在してはいけない、だとか、こんな人は間違っている、だとか、否定すること。それは個人的にあまり美しい行為だとは思わない。すべて自分の側を流れる大気のように、ただ存在しているだけだから、意識的に受け入れるでも否定して攻撃するでもなく、ただただ在るものと認識することが美しいと感じる。

・くだらねえな、と考えることは自分の感覚の確認でしかないので、否定していることにはならない(と考えている)。その上で、今日はすべてのものがくだらなく感じる。弛緩した空気も、年始を強調したテレビ番組も、ひいきにしているyoutubeチャンネルも、酒を買い込む大学生も、不満げにレジ打ちするおばちゃんも、寝転がりながら乱雑な文を打つ自分も。みーんな平等にくだらない。そしてそれは今の自分の中だけに存在する感覚であり、妄想よりも汚れた、思考のゴミでしかない。だから、くだらないことはくだらないこととしてただ在るだけなんだ。

・この後もぼくはくだらない時間を過ごすだろう。時間を潰すために仕方なくビールを飲んで、意味もなくスマホをいじり、新年感しか出さないSNSの知人たちに飽き、眠気が来てくれることに救いを感じるのだろう。くだらない時間だが、くだらないと自覚して過ごすのであればいくらかマシなのだ。大丈夫だ、みんなくだらないのだから。

・ごちゃごちゃ書いたけど、結局は元旦というある種特別な日付けに思考が踊らされているだけなんだと思う。それならそれでいい。逆らわずにいこう。くだらない時間を過ごしていこう。

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