「松本人志スキャンダル」に思う、「本物」と「大物」の差異について
さて、私はTVをほとんど見ないので、お笑い芸人についてはさして詳しくないのですが、現下「松本人志」のスキャンダルが話題です。マーケティング的には面白い材料だと思いましたので考察してみたいと思います。
それは、「本物の喪失」がまねく真贋の見分けとでもいいましょうか。
消費行動はすべて「差異による記号化」になる、と予言したのはボードリヤールでした。どういうことかというと、お店に似たようなモノが溢れてくると、必要に迫られて購入するわけではなくなるので、消費者はどれを買ったらいいのか分からなくなります。すると商品の性能というよりも、その違い(差異)をどう説明するかが、企業の販売戦略で最も重要なミッションになるわけです。その商品の差異が説明化に向かう、というような過程が「記号化」という概念であり、今後も更に進展していくと考えられます。
美容業がまさにそうで、美容室はコンビニの5倍も軒数がありますから、美容師はみんな、自分の得意分野のアピールで必死になってきています。(美容師の「記号化」についてはまた別の機会に)しかも、それは全ての商品やサービス、芸術や音楽、エンターテイメントも同様となってしまっています。コロナ禍を経て、その差異の「記号化」は「時間」をも分解し始めたのです。
それが意味することは、「本物」かつ「大物」であったようなモノも、記号化によって「本物」とそうでないモノとの差異がなくなってきた、ということです。松本人志は、そのデビューからの、いうなれば<成り上がり過程>という<長い時間>をテレビで見ていた世代にとっては、高額を支払ってでも見たいリアルな「本物」であり、ゆえに「大物」という存在にまで上り詰めたわけですが、一方で、頻繁にTVに出演していることで、一般化してしまいその価値が薄れていき、老いとは別に、必ずしも「大物」が「本物」であるとは認識されなくなってきた(もはやTVは中高年しか見ないコンテンツですから)ということではないでしょうか。
ボードリヤールが言うように、本物と偽物という二項対立的な二分法は、近年さらに意味をなさなくなりつつあります。「本物」とは、経済活動においての交換価値が最大に近い商品を指すわけですが、人間の行動様式が生物学的不足を超えて、「欲求」から「欲望」へと変容してしまった現代社会においては、欲求は満たされることはあっても欲望は満たされることはないため、買い手側の需要に関係なく、売手側のシュミラークルの操作で、大衆文化にとってはいかような刺激でも生産しうるのです。
「本物」とは本来、<情報の受け取り>だけではなく、能動的に「五感」を通じた身体的反応を経ないと見極められないものだと思います。私たち人間は「知覚の束」であり、例えば、ソムリエはワインを飲んで、産地や年代を「味わい分ける」ことができますが、それに近いことは、本来、人間なら誰にも訓練によって可能になるはずなのです。私たちは、無防備なまでに、TVやメディアからの情報を受動的に見聞きし過ぎているように思います。
では、続きはまたの機会に。
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