見える世界を見えない世界にするために。牛腸茂雄『SELF AND OTHERS』。

画像1

牛腸茂雄。何を隠そう、いや、ちっとも隠すことでない。牛腸茂雄、写真家であり、美術家、デザイナー、あるいは呼び方なんてなんでもいいのかも知れない。詩も短歌もたしなんでいる。大方がそうであるように、団塊世代の時代は彼らにあらゆるものを要求した。だからなんでもよかった。そう、肩書きなど。1946年に生まれ、1983年に逝った。享年36歳。それを若いと言葉にすれば、それだけの写真家になってしまう。ならば人は彼をなんと呼ぶだろう。天才でありさえすれば、というより、なんとなく存在している、フワフワとした風船のような。あるべきところにいて、あるべきところにいなかったような、そんなカメラマン。私は写真は門外漢でしかない。ただ、彼の写真を観ているとじんわり惹きつけられる塩梅。そこに救済をみた。あるいは感じた。つまづいた。生きる術を失った。なのに今でも私は生きている。私事など隠すまでもない。父が死に、それを機に改めて手にした。そんな写真集『SELF AND OTHERS』。

文 / 竹下力

人生は単純明快である

何を隠そう、いや、ちっとも隠すことでない。人生は単純明快である。

2021年4月1日、午前9時46分。父・竹下勲、永眠。70歳。長らく患った肝硬変によるものであった。時同じくして、コロナウイルスの猛威によって、私の住む東京から、実家の静岡県の浜松に帰ることも容易でない。老齢の親類がいるのでPCR検査のため数日かかり、死に目にも会えず、火葬場にも立ち会えず、荼毘にふした。

ねえ、父さん?

陰性の結果に、なんとか実家に帰る口実はできた。東京駅から浜松駅まで向かう新幹線の中で、移ろいゆく悲しみさえ感じない景色の中で、私はひとりつぶやいていた。「父は生きた。そして死んだ。なのに私は生きている」。その差はなんだろう? 過去と現在があるだけなのか? そんな想いが、久方ぶりに帰った実家の父の部屋に置かれた骨壷を見ていたら徐々に浮かび上がった。現像液から浮かび上がる写真がごとく。まさか! さいばしでつまみ上げたポテトチップスみたいな骨を見てさらにつくづくと。生とは何? ならば、死とはなんぞや? 人は死ぬ。それ以上に生きる。だからどうなる? 父親の死後の整理を慌ただしくし、東京に帰る。東村山のボロアパートの玄関前に荷物をおろして、鍵を開けようとしてふと目を上げる。

牛腸茂雄がいた。それは幽霊のようであった。カメラを構えこちらを見つめる。その視線は私に何も要求しない。

いや、まあ、そうである。彼の写真集を目にしたのはいつだったか。すでに出会っているのだ。写真に興味を持ち始めてはいた。学校の先生の勧めもあった。ダイアン・アーバス、奈良原一高、細江英公、石元泰博、森山大道、荒木経惟などなど。とりわけ驚嘆したのは、前衛写真部隊の象徴、吃驚仰天の『初夏神経』、小石清であった。いずれせよ、狂っているように見える彼らの写真を観るにつけ、胸はやけに熱くなっていたのだ。

こちとら20代の半ば、紀伊國屋新宿南店の6階か7階の写真集売り場だった気がする。銀色のカバーにブルーに黒を混ぜたタイトル文字。中央に小さな写真。霧の中を子供たちが駆けていく。そんな写真がポイと載せられた写真集。両隣にはなんともかっこいい装丁の写真集が並ぶなか、それはなんとも異質であった。シンプルで、静かで、霞んでいて、言葉なげ、所在なげ、そこには悲しみのみがあった。

いや、それは私が感情移入したせいかも知れない。その当時、躁鬱スパイラルに見舞われ、不良品(おしゃか)な気持ちを抱いていた。何をやっても、もう、仄暗い道を歩くしかない。クソみたいな人生だった。だからこそ何かしら惹きつけるものがあった。1ページめくり、それをめくり、そしてその次へ。そうさせてくれる写真集。その当時は手にしていない。理由などわからない。金がなかった、そう、それだけだ。生きていく術などどこにもない。あれから暗くボーッと時は過ぎてゆく。

時は2021年。私は父の骨壷の前で手を合わせるだけのなんとなしの葬儀から帰り(遺影さえ作ってなかった)、私が住むボロアパートの玄関の前で牛腸茂雄に会った。あの躁鬱スパイラルが蘇る。いや、今でさえ。現在、過去、未来、それは変わり映えしないヘンテコな生の表象として彼はずっといたのだ。いつだってお前はお前でしかない、と。生きる? 死ぬ? なんてもう。人生によって苦しめられることになる何かに怯え救済を願い続けることこそ人生。彼はそこに救済さえ残さない。だからこそ、何かに取り憑かれるようにその写真集を想い出すことになる。救済なき救済にこそ救済が宿る。なんとなしにヘラヘラと笑いながら。

そう。父の喪失にこそみていたもの。わずかながら、60枚の写真にこそ。駆け出した子供たちは、駆け出したまま帰ってくる。

牛腸茂雄とはなんぞやということになれば、その略歴および研究などは、詳しくは『SELF AND OTHERS』の解説で飯沢耕太郎氏によって書かれているので参照されたし。氏の紹介なくしては、牛腸茂雄に出会うこともなかった。私の駄文では紹介しきれないし、氏の考察、牛腸の師である大辻清司の序文が素晴らしいので、簡素に筆をとる。

1946年、新潟県加茂市穀町に生まれる。実家は金物店を経営していた。そして人生の転機はすぐに訪れる。1949年、胸椎カリエスを患う。カリエスとは「骨の慢性炎症。殊に結核によって骨質が次第に破壊され、乾酪壊死物が膿状に流出する骨の病気。骨瘍(こつよう)。骨疽(こっそ)」(広辞苑)。そう痛いのだ。痛くてたまらないのだ。人生の余儀なきこと、その時すでに悟っていたはずだろう。「無理なんだってお前には。何を? 生きること!」。いや、だからこそ生きる! それでも彼の体は一切合切成長しないという、カリエスの後遺症に悩ませられる(あるいは別の原因があるのか)。体を縮こませ、なんとなしに生きる。その決意にこそすべて。1965年、桑沢デザイン研究所に入学。最初は写真より絵画やデザインに興味があったらしい。1968年、同学校卒業。『カメラ毎日』に「こども」を発表。写真家としての活動のスタートとも言える。そして、1977年、本書が編まれる。そのわずか6年後、体調悪化のために死去。1983年6月2日に永眠。36歳であった。

人生はなんとも早いものである。父もそうだ。生まれ、生きて、死んだ。それだけだ。表紙をめくり、中表紙にたたずむ「SELF AND OTHERS」という文字。序文は、彼の師であり、それ以上に庇護者に近いかも知れない、大辻清司。大辻は弟子に熱い序文を寄せる。「牛腸君には他人に対して特別な関心があるように思えてならない(中略)あるいはたまたま、もしくはまさしく、時空を越えた空想のオデッセイとして企図された、彼の心の放浪の記録であるなら、出来上る写真の一枚毎に当面したのは、そうした空の思いとはうらはらに、何者でもない他者そのものとの出会いであっただろう」。ここでの解釈はあえておく。賛辞以上の賛辞であり、弟子への激励であろう。

そして1枚目の写真。まさに喜びに溢れた写真、育児室の赤ん坊の泣き顔の写真から始まる。そう、人は生まれる。オギャーという声で持って。牛腸は1971年に写真集『日々』を桑沢の同級生の関口正夫と共著でものにしている(本書と同じく自費出版)。確かにそれらの写真は習作を出るものではないかもしれない。やはり彼はここで生まれた。オギャーと。どことなく居心地悪く。決して完成されたわけではない。だからこそ、そこでの悟りは一つ。あらゆるものをありのまま受け止めること。

1枚目の写真の通り、彼は「泣いている」という行為を受け止め記録する。そこに感情はない。というより感情を消失させている。あるいは抱けないのかも知れない。私が父の骨を目にした時のように。生まれること、生きること、死ぬこと。本人も死線を彷徨った。その境はどこにある。どうすりゃいい? 喜びも悲しみも消えていく。三途の川の向こうは見えていたのだ。うっすらと笑う「孤独」な「私」。続いてどこかの丘を駆け降りてくる笑顔の少女。そして代表作となったこちらを見つめる双子の女の子が手を繋いでいる写真。視線は常にこちらを見ている。誰となく「私」に対してである。そこに介在するものはない。いや、バイアスさえ存在しない。緩やかで、そこにいるという視線。ここにこそ彼が掴み取った原点がある。それは平熱としての人間への興味であり、恐れであり、あるいは自己の存在を消し去る格好の標的の「あなた」だった。あなたの目に私が映らなければ、「私」はそこにいないのだ。

もう、三途の川を渡ったもんな。

ページにはノンブルもなく、真ん中に、そっけなく置かれた写真が60枚ほど連なる。明確なストーリーも換気するイメージ力は写された写真以上にない。いや、それを要求せず拒否している向きさえある。そこにある。そこにあるだけだ。悲しみも喜びも、怒りも、すべて通り越して、孤独になる。1人から2人、3人4人と子供たち、オブセッションのように双子を撮ったかと思えば、大人、カップルがこちらを見ている。キャプションがなければ、その存在証明も見当たらない。私は感じるだけである。ああ、そこに「あなた」がいるということを。そこがどんなに醜い世界だとしても。目線はあくまでフラットであり、写真の中央に人がいる。明確な主義もなく、そこにいるのみである。それでも、それは見えているのだ。死を超えた先に。彼は死から「私」を観ている。と、同時に、何も見えていない。だから彼は次に向かった。その次へ。その次へ。死へ急かされるがごとく。もう……何も見えない。

見えるものが見えない世界。それが現実だったのだ。当時、というよりも、今の時代でも現実は、我々には何も見えないのだ。

現実はどこにある? じゃあ、どうすればいい? 生きればいい! そうここにある。この写真集は、「私」が「私」であることを抹消した、「私」でしかない写真集であり、そこにいる「他者」の触媒としての「私」である。私はブツでしかない。そんな諦念とも。写真集の最後の段、小さく収まった子供の頃の写真(6才の時とある)と自画像と。居心地悪く。小さく小さくあるのみだ。そして表紙に使われた走り去っていく子供たちで終わり。

結局、堂々巡りさ。「私」を消したところに生まれる「他者」というよりも、「他者」を消し去ることで浮かび上がる「私」。それは不安定で、微細な振動である。

世界は何をしても動かない。まったくもってもう。諦め。へへへ。三途の川は渡ってしまったのだ。

あるいは、まだまだ若書きと言えるかも知れない。だからこそ生まれた、不安定の安定。別段気取っているわけでもなく、そうでしかないアンビバレンツな魅力がある。そしてその悪意をもってこそ。

悪意のある時代、彼はそう感じたかもしれない。彼が生まれた年代でいえば、新左翼系の運動は避けて通れないだろう。いや、避けて通ればこその平熱なのか。時にシュプレヒコールが叫ばれ、新宿駅の西口は放尿と火炎瓶の嵐だった。でもなにやら激しくてなんとなくついていけない。そんな想い。私の父もそうであった。これらの写真は、異議申し立ての異議申し立てであり、批評に対する批評であった。学生運動は、目的の喪失であるからこそ成立したノンシャランな性格にこそ意味があったと私は考えている。その集約に三島由紀夫の割腹があるとするなら、一種のパロディになるしかなかったのだ。そんなパロディも瞬間だった。そもそも根本的な異議申し立てがぐらついている以上、それに対する批評もぐらつくしかない。あとは壊れるののみ。であるのなら、心を閉ざすほどにこそ強さがあったのではないか。

グダグダしくはいい。私は歴史家ではない。私は批評家ではない。私は何者でもない。拒否します!

それらを「コンポラ」写真と評してさっさと片付ける動きもあった。私はその時代の運動を、雑誌の写真家の証言や書籍から感じるしかない。その時代にあった写真熱のようなものは、よく知らない。半ば死語のような言葉で語れた彼に対する評価も、時代とともに消え去り、彼の写真だけが残っている。それこそ巧みざる牛腸の罠なのだろう。何もない、だからこそ何もかもがある。

そこになければ何もないのだ。もう、それはいい。何も言うまい。

この写真群には、平熱と水平の視線が絡み合いながらも、「他者」に対する恐怖と己に対する恐怖との合間でもがきながら「あなた」を抱きしめようとする意思がある。でも、三途の川を渡りながら、ひたすら死へと加速することで意味性を取り払うことに意味があったからこそ「私」がいたとしたらどうだろう? 泥に泥をかく。泥は泥にしかならない。「私」には「私」しかいない。普遍性とは喪失にこそ生まれると訴えているのではないか。彼に共感してしまう、あるいは共犯感覚さえ抱いてしまうのは、彼は写真を通して、被写体にまつわる諸々の神話を抹殺しているのではないか。いや、抹殺ではなく、密かな微笑みをたずさえた笑殺である。

だからこそ、私は父の骨の前で、ヘラヘラと腹をくぼませて笑っていたのだ。

私はあなたと同じ犯罪者なのだ、そう呼びかけている。消えろ、お前。お前、消えろ。

写真とは、言葉にならない言葉であって、声にならない声であって、伝えたいのに伝わらない想いである。とは、誰も言ってない。それでもそうと捉えることができる。人生の入口と出口。入口はオギャーと生まれ、あーあと人は死ぬことこそ出口だと思うなら、そうとしか言えない。だとしたらその合間はなんぞやということ。彼はその入口と出口の合間を、見えないものが見えるように、見えるものを見えないようにしていたのだ。それこそ写真の本質でこそあれ、そうでなければそれでいいというやけっぱちにさえ。すべてを消せ。さすれば浮かび上がれる。そうして牛腸はつぶやいている。「“今”がここにあるように すでにして“今”はここにない…」などと。

私はただひとりごちていた。「これはなんとも敵わんな」と。悟りにこそ悟った人生の余儀なさは、そこには薄れていく「他者」にこそ存在していると。「私」は「あなた」を殺すのに、「私」が死んでいく。「私」は死んでいく。「私」も死んでいく。死んでいくのみだ! 本書は私が生まれる1年前に刊行された。私はそれを知らない。ある意味、本書は死んでいた。私は追いかけるだけである。

父は死んだ。私はその後を追いかけるようにして。死んでいくのみである。

正直、何を感じれば正解なのかわからない。死ぬことが正解だとしたら。だとしたら……。生きればいい! 本当か? 理解できない父性にこそ宿るただならぬ不気味さも私にはわからないのに。

それでも、牛腸茂雄は私の家のオンボロアパートの玄関の前で微苦笑をたたえている。そして私もヘラヘラと笑いながらそこにいる。彼の亡霊が今でもいる。それは「私」であり「彼」である。「あなた」であり「彼」である。彼は私に語りかける。牛腸と同じくカリエスに悩み同い年で死んだ詩人・淵上毛錢の墓碑銘がごとき単純明快な答えを。

「生きた。撮った。死んだ」。

さて、私はなぜ生きている? なぜ死なない?

何を隠そう、いや、ちっとも隠すことでない。死者は死者のままである。

参考文献:牛腸茂雄『SELF AND OTHERS』(1994年、未來社【社は旧字体】)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?