甚兵衛
男は長屋にある甚兵衛の家の戸を叩く。
「甚兵衛はん、甚兵衛はん!」
「なんや、いま時分に。まあ、こっちお入り」
戸を開け中へ入るも甚兵衛の姿はなかった。
「甚兵衛はん、甚兵衛はん!」
「こっちお入り」
襖の奥から声がした。男は座敷へ上がって襖を開けるが、誰もいない。
「甚兵衛はん、甚兵衛はん!」
男が呼びかけると、更に奥の襖から
「はよ、こっちお入り」
と声がする。再び襖を開けて中へ入るが、甚兵衛の姿はどこにもなく、そこは四方が襖に囲まれた部屋であった。
「甚兵衛はん、甚兵衛はん!」男が呼ぶと、
「こっちや、こっちお入り」
とまた声がする。男は声の所在がわからず、
「甚兵衛はん、どこや、甚兵衛はん!」
と叫びながら闇雲に襖を開けると、また四方が襖に囲まれた部屋に出た。
「こっちお入り、こっちお入りな」
と声がして、男は次々と襖を開けていくが、襖に囲まれた部屋が延々と続くばかりで、一向に甚兵衛のところへは辿り着けない。
「堪忍や、出てきておくれ!甚兵衛はん!」
「こっちや、こっちお入り」繰り返し呼んでは返事があり、繰り返し襖を開け続ける。
「こっちや、こっちお入り」
山彦のように反響し四方から甚兵衛の声がする。「甚兵衛はん、出てきておくれ、甚兵衛はん!」男の声も襖から襖へ、部屋から部屋へ反響し、二人の声は混ざり合い、声は音となり和音を奏で、響き合う音響の波は脳を震わせ、全身に痺れを感じたかと思うと踏みしめた足元の畳の感触は薄れ、まるで宙に浮いたように感じられて、無重力に浮かぶ一個の惑星のような自らを観測し、音の振動を掻き分け、赴くままに遊泳していると、傍らを並走する何者かの気配を感じたのだった。
「よう、来なすったな」
甚兵衛がそう言うと、男は足の裏に触れる草の感触に気が付き、地べたに立っている事がわかると同時に、膝への急な重力を感じて、倒れないよう踵で地面を踏み込んだ。
樹々で覆われた草地に男は甚兵衛と向かい合って立っていた。そこは、どこの国にも属さない場所である事を直感的に理解した男を、甚兵衛も直感的に察すると、目配せをしてついて来るよう促した。木立を抜け、開けた場所に出ると、緑に囲まれた美しい村と出会った。農園と住居が混在する村は、遊びまわる子供の姿と沿道に咲く季節の花々がまず目に留まる。東屋で瞑想する者らや、路上で楽器を演奏する者、音楽に合わせて踊る者、飲食を楽しむ人々など和やかな空気が村中に漂う。只一つ気になる事は、そこに暮らす人々(老人も子供も)全てが甚兵衛だった事である。
「ここにおるもんは皆甚兵衛じゃ、あんさんもじきに甚兵衛の仲間入りじゃ」
「いや、わて甚兵衛はんとちゃいまんがな、けったいな事言わんといて。ちゃんと名前が……あれ?わて名前何いうんでしたかいな?えらいこっちゃ、名前忘れてしもうた!」
「みんな初めはそうじゃ。気にする事はない。じっくり馴染めばええのんじゃ」
村は資源が循環する設計となっており、有機物は無駄なくエネルギーに変換される。循環型の生物多様性に溢れたエコビレッジがそこにはあった。理想を実現する絶え間ない努力とその事に共鳴した人々の無私の精神により誕生した強固な理想郷。高い志を持てば必ず良い方向へ向かう事を実践した世界。そこには自治を保ちながら他者を受け入れ育ててゆく精神の豊穣さを感じずにはおれなかった。
「けど甚兵衛はん、循環システムいいますけど、わてら江戸時代の人間でっせ。環境、大概循環システムのエコビレッジですやん」
「確かにそうじゃが、ほかには差別や格差がないのも良いところじゃ」
「ところで、こっちの方はどうですのん?」
「おなごか、おなごという概念はない。なんせ皆甚兵衛やさかいな。けど、中には可愛らしい甚兵衛もおるからきっと気にいる筈じゃ」
そんな話をしてから間もなくの事、男は村で一人のある若い甚兵衛と出会った。男はひと目で恋におちた。その可憐な甚兵衛もまた男の事を気に入ったようで、二人は山へ川へと出掛けては愛を語らい合うのだった。そんな中、男は日々甚兵衛になっていく自分を感じ、傍らで愛しの甚兵衛はその事を喜んだ。しかし男には忘れてはいけない自分の役割があるような気がしてならず、日に日に一人で過ごす事が多くなった。そしてある日、男は自分自身の本当の名前を思い出したのだった。男の名前は喜六といった。
「甚兵衛はん、わてここを出ようと思います」
「そうか、残念じゃが仕方がない。お前を慕っておった甚兵衛が寂しがるやろなあ」
「すんまへん、会うと辛いんで甚兵衛はんの方からあんじょうゆうといて下さい。ほな!」
「また来いよ」と甚兵衛が言い終わらぬ内に喜六は初めに来た道へ向かって走り出した。
「何やねん!全員甚兵衛のエコビレッジて!気持ち悪っ!ヤバいヤバいヤバいヤバい!」
森を抜けると暗闇の奥に襖が見えた。襖を開けて中へ入ると、また四方襖に囲まれた部屋である。喜六は襖を次々と開けて前進する。しかし一向に出口に辿りつかない。喜六は道に迷っていた。そして嵌められた事に気が付くのだった。行きは甚兵衛の声が案内となったが、帰りの道標は何もない。どおりで今迄「甚兵衛のエコビレッジ」の噂を聞いた事がない筈である。誰も帰りつかなかったのだ。この襖地獄の中で皆のたれ死んだに違いない。しかし喜六は諦めなかった。挫けずに何枚も襖を開け続けた。時間もわからぬ無限の空間の中、もう夜になった頃かとふと思う。そしてこの絶望の夜の中で、立ちはだかる襖を開け続けながら喜六は言うのだった。
「明けない(開けない)夜はない」と。
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