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体があるということ

子供が読む漫画で人体が切り刻まれたりとか、
大人たちが仮想空間の猫耳少女を「本来の自分」と呼んだりとか、
人間のクローンはもう作れるんです、問題が多いから作らないだけで、とかの話を聞くたびに、死にたい気持ちになってくる。

昔の人はビートルズを「けしからん」と言ったそうだけど、私の気持ちはそれと同じなのかな?チャンス、メリット、救いがあるのは頭では理解している。でも今のところ、自分まで否応なしに、人間が生き物でなくなる世界に巻き込まれてしまいそうなのが怖いのだと思う。

ヴィクトール・E・フランクルの新版「夜と霧」を読んだ。理系の人も文系の人もさらりと読めるのがいいところ。もっと堅苦しい本なのかと思ってた。方々の論文が引かれたり、ナチスの何たるかがガチガチに論じられたりする本なのかと。

持ち物、衣服にはじまり、尊厳も体毛すら奪われて、文字どおり丸裸にされ、ただの番号になって、食事もろくに与えられず、糞尿にまみれて家畜として使い捨てにされる。同じ人間にそうされる。それでも人間が失わなかったものは何か。

食欲の他には、まず、愛する人への思い。著者は、もうろうとする意識の中で愛する妻の姿を見て(幻影)、対話したと言ってる。妻もどこかの収容所へ送られたから、生きてるか死んでるか分からない。でも死んでいても構わなかったと言ってた。

そして、美しいものに感動する心。真っ赤にもえる夕焼けに驚いて、ある被収容者が全員を大声で呼び、しばし皆で見入ったという。誰かが叫んだ、「世界はなんでこんなに美しいんだ!」

その後の内容もよかったが、書くと陳腐になる。ただ私が衝撃を受けたところはこういう部分……「生きている意味って何か」「生きてるからってどうなるのか」という考え方はいい加減やめないか。「命あること自体が、各人に問いを投げかけている」つまり「どう生きるべきなのか」ってことを、私たちは1人1人、その時その時に問われているんだと。苦しみや死にも、意味がある(もちろん自殺を勧めているのでは決してない)。人やそれぞれの状況に一つとして同じものはないから、普遍的な答えは存在しない。その人なりの答えを、その時々で出していくしかないんだということ。それから、いつか、できるようになったらこうしたい、ではなく、その状況で何ができるのか、だと。

この考え方につながることができていたら、一体どれだけの人が救われたかと思う。ただ、苦しい最中に出会ったらどうだったか。収容所での経験という有無を言わせぬ説得力があるだけに、私だったら、彼よりも恵まれた環境の中でもどうにもできない自分を責められているように感じたかもしれない。または説教臭いと思ったかな。だから苦しい人は取りあえず前半だけでもいい、無理だと思ったら元気がある時に読み直してほしい。ただし著者自身も何度も言ってる。多くの場合、自分は理想的な行動など取れなかったと。その上で敢えて書かれた本だ。

切られるどころかちょっと転んだだけでも痛くて、まあ残念な容貌で、物事がうまくいかず、重い病気になったら助からない、ずるくて臭くて雑菌だらけで意地汚いのが私であり多くの生き物だと思う。

本の印象が強すぎたのか、夢を見た。列車の中。収容所に向かっているようだ。でも、それは設定で、これは映画の撮影らしい。夫の近くに小さい息子が走り寄る。「お父さんもお母さんもいなくなっちゃった」夫は何か言って列車の進行方向を指さす。私も「あっちにいるんじゃない?」ふっと不安になるが、これは撮影だ。まず私のセリフを忘れないようにしないと。1文だけなのに、外国語だから何度読んでも覚えられない。復唱する。また復唱。娘が不意に耳元で言う。「死にたくない」
私は目が覚めるまで、自分のセリフを繰り返していた。

夜と霧【新版】
著者 ヴィクトール・E・フランクル 訳者 池田香代子
https://www.msz.co.jp/book/detail/03970/

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