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名刺の山櫻 市瀬與彦相談役に名刺の歴史を聞いてみた

「ビジネスのはじまりは名刺から」と言われるように、ビジネスシーンでの第一印象を左右する名刺。いまでは社会人として当たり前に使っている名刺ですが、いつから使われるようになったのでしょうか?
今回は名刺の歴史について、名刺の山櫻 市瀬與彦相談役にお話を聞くことができました!

市瀬 與彦 Tomohiko Ichise
1956年信州大学卒業後6年間の教職を経て、1962年山桜名刺株式会社(現、株式会社山櫻)に入社。専務・副社長を経て1997年創業者の後を引き継ぎ代表取締役社長に就任。2004年より会長、2021年に相談役として現在に至る。


名刺の語源

― "名刺"という漢字には「刺す」という字が使われていますが、どのような意味があるのでしょうか?

紙ができる以前、中国では竹や木を削った札に名前を書いたものを「刺」あるいは「名刺」といっていました。「(シ)」という漢字の成り立ちをみると、右側のつくり「」(りっとう:刀)が「きずつける」こと、左側の「」が先の尖った兵器を意味し、音は「シ」で、文字全体として「つきさす」ことを表しています。そのことから「つきさす」から「きずつける」「けずる」、そして「竹や木を削って作った札」となり、「木簡や竹簡に名前を書いた札」すなわち「名札」が「刺」あるいは「名刺」へと展開してきたと考えられます。

2200年以上の歴史をもつ「名刺」という言葉は、洋紙の台紙に名前を印刷するようになった明治以降も日本において生き続けているのに対し、本家本元の中国においては名刺ではなく「名片(ミン ピエン)」といっています。「片」とはカードのことですが、西洋文化の移入とともに「名刺」という言葉とは決別したものと思われます。

「刺」のほかに名刺のことを「」ともいいますが、それは身分の高い人に拝謁する(お目にかかる)際に使われたからです。 「刺」は作る立場から、「謁」は使う立場から生まれた言葉であり、その発祥には興味深いものがありますね。

名刺の起源

― 名刺の使われ方は現代と同じだったのでしょうか?

「刺謁」(名刺を出して面会すること)、「通刺」(刺を通ず・名刺を差し出して面会を求めること)、「還刺」(刺を還す・名刺を返して面会を断ること)などという言葉が示す通り、高位高官に面会を求める際に用いられたものであり、現在のように、互いに交換するものではありませんでした。これは名刺のことを「」といったところからも推察できます。

明治36年刊の「曲礼一班」という陸軍軍人のための礼法書には、「訪問の礼を行ふには必ず名刺を呈致せざるべからず。其の名刺は潔白の厚紙を用ひ、我が姓名(有爵者は其の爵を冠す)を鮮明に、漢字は楷書、洋書は草体に書し、銅板若くは活字版にて印刷すべし。(官職上の訪問等にありては官職等級爵位姓名の名刺を要すれども、其の以外は之を用ひざるを可とす)又、公務上其の他公庁に至るときは必ず名刺を致すべし。」とあり、名刺は主に、訪問の際に用いられ、まさしく「Visiting Card」そのものであったと言えます。

― 名刺を最初に使った人物とは?

前漢時代、司馬遷の著した「史記」によれば、

― 前漢の初代皇帝・高祖となった劉邦は、文無しの自称侠客であった若い頃、県令のもとに移住してきた勢力家・呂公の歓迎の宴に、手土産として「千銭」以上持参しなければ座敷に通されないというのに進物を何も持たず「劉邦 1万銭」と書いた名刺(木簡)だけを持参して、かえって呂公に歓待された。また、劉邦の人相にすっかり惚れ込んだ呂公は、彼が将来大人物になることを確信し、かわいい娘を劉邦に嫁がせもした。彼女はやがて高祖の后となり、劉邦の死後は呂后として政治に君臨した。 ―

このように、名刺を使った記録が残るのは劉邦と伝えられていますが、すでに名刺を使う習慣のあったことは伺えますね。


日本における名刺の起源

― 日本ではいつ頃から名刺が使われるようになったのでしょうか?

日本では、19世紀初頭(江戸時代)、訪問先が不在の際に和紙に名前だけを書いたものを置いてくることに始まり、幕末には木版印刷した名刺が使われ、訪日する外国人と接する際に交換したという記録が残っています。そして明治時代以降、盛んに取り交わされ、鹿鳴館時代には社交界の必需品となっていたそうですよ。

― 日本で初めて受け取った名刺について教えてください。

1854年 ペリー2度目の来航時、横浜接遇所辺りを警備していた津山藩の蘭学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)が、たまたま散策中の軍艦サラトガの乗組員 JRGoldsboroughと遭遇し、そこで取り交わしたものが日本国内で受け取った現存する最初の名刺として、津山洋学資料館に保存されている。なお、箕作秋坪は1862年の文久遣欧使節の通訳として福沢諭吉らと随行している。

― 日本人が初めて渡した名刺ってどんなものだったのですか?

日本人が海外で初めて渡した名刺は、1860年日米修好通商条約批准書交換のためアメリカに派遣された江戸幕府の使節団、新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)らが使用したものだという記録があります。

日本語と英語で記された幅3寸(9cm)長さ6寸(18cm)ほどの大きさの名刺は、当時のニューヨークヘラルド紙には「桑の皮から作ったものであった」と記されています。幕末、日本人と米国人の公式交渉での接触の際に名刺やサインを交換し合った様子が、「ペリー日本遠征随行記」の文中からも知ることができるそうです。

現代の名刺

― 名刺の語源や起源についてお話を伺ってきましたが、最後に現代の名刺の特徴など教えてください。

寸法は、明治以来、尺貫法に基づいて10種類以上の独自規格がありましたが、1959年1月のメートル法施行以降は寸分からcm・mmに換算されて現在の寸法になりました。男性は4号(55×91mm)、女性は3号角丸(49×85mm)、花柳界の女性は小型4号角丸(39×70mm)あるいは小型3号角丸(33×60mm)というのが一般的でしたが、1986年に男女雇用機会均等法が施行され浸透するに従って、男女ともに4号名刺が多く使われるようになりました。この寸法は日本の和紙の寸法に由来すると同時に、ほぼ「黄金比※」でもあることが普及し定着してきた要因の一つと考えられています。

現在、名刺の紙の厚さは、かつて薄口名刺といっていた100枚で18~25mm位が一般的ですが、以前は普通名刺として33~35mm位のものが一般的でした。部長役員クラスになると、それより厚く、大臣クラスは2枚貼り合わせのもの、皇室では3枚合わせのものも使われていました。もちろん厚くなるほど値段も高くなり、厚い方がいいものと当時は考えられていました。日本人同士で名刺交換をしており、世界をあまり知らない時代の日本的な概念だったのです。

日本経済が発展し、外国との取引が増え、名刺交換してみると薄くてしっかりした素晴らしい紙で、日本の製紙技術はとても及びませんでした。当社もなんとか薄口名刺を製品化したものの、出荷も少量で特殊名刺扱いでした。しかし時代の流れとともに、徐々に薄口の名刺が増え、今では薄口が一般的な普通名刺の厚さとされています。それでも厚手の名刺は重厚で威厳があり、薄口と併用して愛用される方も多いですね。

※名刺のサイズには「黄金比1:(1+√5/2)」が影響していると言われており、これは古くから安定した美しい比率だといわれています。パルテノン神殿やピラミッドなど歴史的建造物や美術品、また、自然界にも見出すことができると言われ、様々なカードのサイズにも使われています。
55×91mmというこのサイズは、19世紀中頃にフランスの写真家デリスデリが考えた写真付名刺が元になっていると言われています。日本では書籍の四六判に由来し、その4分の1が当時の名刺1寸8分×3寸に近く、昭和34年のメートル法執行後、ミリ換算した数字が55×91mmです。


written by Nob Y.