モンハイムトリエンナーレ 【ドイツ紀行 Part 3】

帰国して蒲田のホテルにチェックインした。小さいながらもしっかりした机があると飛行機よりも数倍作業しやすい。Part 3 は Monheim Triennale について少しだけ書こうと思う。

モンハイムという小さな町の風景。いい感じである(語彙力)。

Monheim Triennaleは今年で第二回というまだ若い企画だ。初回は音楽にフォーカスしていたようで、今回はThe Soundと銘打って俗に言うサウンドアートをメインテーマにした展示だった。会期は2023年6月いっぱいの約1ヶ月間であり、いくつかの作品はその性質上限られたタイムテーブルで展示あるいは上演されていたようだ。ゆえに1日しか滞在していない僕はその全容を語ることはできないが、いくつか考えたことを書き留めておこう。

全体について

いくつかの作品は規模が大きく、旅や美術館が好きな人にとっては悪くない体験になったのではないだろうか。たとえば "Modular Organ System" という作品は特殊な再生装置から比較的単純な電子音が発せられ、物理空間上でシンセサイザー的に音が変性するというシンプルな作品だが、その展示会場はなんと500平米はくだらないであろう建設中(とは言ってもほとんど完成している)の立体駐車場を貸し切りである。本来は車しか通れない螺旋状の道路を徒歩で6階まで上がると現れる大きめのスピーカーは、圧巻と言うほどではないかもしれないがかなりのインパクトがあった。

ちなみにモンハイムはデュッセルドルフから40分ほどの小さな田舎町で、町の中心から少し離れると工場のような建物がたくさんあった。ローカルの人で賑やかな町とは対照的に、工場エリアは車の行き交う音と工場から発せられる低く唸るような機械音が絶えず流れ、産業的静けさとでも言うべき単調さで満ちていた。

町全体を使ったサウンドアートの展示において優れている(と考えることもできる)点は、作品同士が干渉しないという点だろう。サウンドアートと呼ばれる作品群は特に20世紀後半から各地でいろいろと見られるようになったと思うが、美術館で展示するようなものに関しては隣接する作品との音の干渉がアーティストから批判的に検討されることが多かったように思う。美術館は基本的に視覚ベースで発展してきた場所なので当然と言えば当然なのだが、隣の部屋の作品の音が壁を突き抜けて聞こえてしまうことを多くの作家は嫌がった。僕は個人的にこの感覚が、つまり他の作品の音と分離された状態を望む感覚が、好きではない。サウンドアートというやや特殊なジャンルの成立過程を考慮すれば不思議なことではないのだが、俗にモダンと呼ばれる過剰な自己純化を彷彿とさせるからだ。この点については長くなるので他の記事に譲る。いずれにせよ、作品毎の距離がかなり開いているために、いくつかの例外を除いてほとんどが独立して楽しめるようになっていたことはアーティストにとって贅沢な環境と言えるだろう。

詳細なレポートの前に全体の感想を正直に述べておきたい。興味深いものもあったしモンハイムという町自体が非常に魅力的である一方、展覧会としての質はやや低く、展示の内容についても「サウンドアートを集めたトリエンナーレ」を冠するには視野が狭く、不思議な表現になるが「古風なモダン作品」が目立つと僕は思ってしまった。以下ではいくつかの作品をピックアップし、その詳細を簡単に検討してみたい。

Hidden Waves, Christina Kubisch

Christina Kubischと言えばサウンドアート界隈で知らない人はいない大御所のひとりだと思うが、僕は彼女の作品を生で見るのは今回が初めてだった。Hidden Wavesは特殊なセンサーを用いてリアルタイムで電磁場の変化を可聴化し、変電所の地面に設置された8つのスピーカーから再生するという作品だ。公式ウェブサイトによると、リアルタイムでモンハイムの変電所における電磁場の変化を音にするのと同時に、作家が過去に同じセンサーを用いて「録音」した世界各地での電磁場の変化がミックスされ音楽的豊かさを表出していく、という具合のようだ。変電所は安全のため柵で囲われており、その中に8チャンネルが円を描くように設置されていた。聴衆は柵の外側から鑑賞するほかないため、サラウンド的な効果を得ることはできない。個人的にはスピーカーのチャンネル数や配置に疑問があるが、過去作品で使用した機材との関連やその他諸々の大人の事情があると思われるのでここでは追及しない。ここで挙げたいのはずばり「なにが可聴化されているのか」という問いである。

答えは簡単だろう。電磁場の変化だ。そういう風に作品解説に書いてある。しかしこれは果たして本当だろうか。いや、僕は別にクービッシュがずるをしているかもしれないなどとは思っていない。この手の可視化や可聴化をめぐる作品の多くが抱える恣意性とどのように付き合うべきかを問うている。その恣意性とはときにアーティストの思想や技術であり、運営の判断であり、アルゴリズムである。これらを排除することが不可能かつナンセンスなのは百も承知だ。しかしHidden Wavesの場合は作品の内部が少なくとも「特殊なセンサー」に詳しくない僕たちにとっては完全にブラックボックスであるため、その音が実際にリアルタイムで電磁場の変化を捉えているのか否かはわからない。そうだと信じるしかない。

ここで2点だけ指摘したい。まず1つは、可視/聴化に過度な期待をするべきではないという点だ。何かを可視化あるいは可聴化したからといってそれが単独でなにか隠れた真実を暴露するとか新しい地平を開く、などといったことは大抵の場合起きない。この世界はそこまで単純ではないからだ。技術的にも思想的にもバイアスがかかる以上、可視/聴化は一種の夢である。歴史学者が現代というバイアスによってのみ過去に対して夢を見ることができるように、可視/聴化を行うアーティストは見えないもの/聞こえないものに対して自身の目や耳が置かれた状況というバイアスを通して夢を見ているようなものだ。しかし夢を見ることは悪いことではない。クービッシュの場合はいささか実験音楽的な流れの影響が強すぎるきらいがあると個人的に思うが、彼女の作品自体が悪いとは考えていない。つまり、僕はこの第一の指摘をクービッシュの失敗だとは捉えていない。そしてこれが2点目の指摘になるが、この作品の失敗はキュレーションの失敗であると僕は考えている。モンハイムトリエンナーレのキュレーションは、音に注目しようとしすぎるがあまりに作家の潜在的豊かさを制限してしまっているように思われた。飽くまで個人的な考えだが、サウンドアートと呼ばれるものがその奇妙な誕生の神話(これもまた別の機会に書こう...)に抗うためにはキュビズム的同時性の一端を担う必要がある。この世は流動的な諸感覚の縺れによって成り立っていると思うが、強引に音だけを取り出そうとすればその縺れは固く結ばれて流動性を失う。抽象的な言い方をしたが、要はモンハイムトリエンナーレは音に注目することによってそれ以外の方法での説明責任に失敗していると僕は考える。近いうちに書こうと思うが、森美術館で開催されているワールド・クラスルームという展示はこのキュビズム的同時性という点において優れているように思われ、僕は好きな展示だった。カタログも買った。個別の作品のクオリティのようなものを仮に評価できるとした場合、森美術館に展示されている作品群とモンハイムトリエンナーレのクービッシュの作品に致命的な差はないかもしれない。しかしキュレーションによって体験に大きな差があるように感じる。まぁ田舎の炎天下と都会のおしゃれ美術館の展示を体験という点で比較するのはフェアじゃない側面もあるかもしれないが。

うっかり長くなってしまった。記憶が新しいうちに他の作品についても少しだけ触れておこう。

A Moment in Passing, Hakeem Adam

地下道に鏡の柱を設置した作品で、視覚的効果がおもしろい作品だった。今回の展示で初めて知った作家だが、興味深いアーティストだ。本作は都市における典型的な「特別ではない構造」に垣間見える近代性のようなものに注目しており、音と建築の相性を考慮すればとても興味深く、相性の良いコンセプトだと思った。過去作品もいくつか調べてみたが、興味深いコンセプトや知的関心に支えられた活動がいくつかあり、今後の展開が楽しみだと思った。過去作品は直接見ていないのだが、本作に関してはややコンセプトが先走っている感が否めない。視覚的な面白さはあるものの、音による効果は正直なところよくわからなかった。音で表現する必然性があるべきだとまでは言わないが、サウンドアートの展示という設定なのであればもう少しサウンドの役割について工夫が見られるといいのになーと思った。ゆえにコンセプト自体にはポテンシャルがあるものの、作品自体は上滑りしてなにも言及していないみたいになっていると僕は感じた。これもまたキュレーションによって緩和可能なものだったのかもしれない。

Modular Organ System, Phillip Sollmann and Konrad Sprenger

冒頭で少し述べた、物理的に音が変性する作品。規模が大きく見た目もかっこいい(と思う)ので人気がありそう。いかにもサウンドアートらしい作品と言えるだろう。かなり古い歴史がある西洋のオルガンを再考し、現代における音楽制作の多層性(ポストスコア、ポスト音源みたいな現状)を表象するというコンセプトは決して目新しいものではないし、特殊な再生装置の中に聴衆の身体が投げ込まれるという構造も新しくない。コンセプトが新しくないこと自体は悪くない。これまた長い話になるので別の機会に書くが、むしろサウンドアートにおいては古いコンセプトを使うことこそが面白さになると思う。しかし、この作品は残念ながらコンセプトと実際の作品にかなり開きがあるように思われた。まずは見た目から構造がわかりにくいので、どうやら特殊な再生装置らしいが聴衆の目線からはそれがどのように働いているのかわからない。スピーカーが置いてあるようにしか見えない。近くで見ることができればよかったのだが、作品からおそらく5~8mくらい離れたところに線があってそれ以上近づくことができなかった。音の体験において距離というものは非常に重要なのだが、作品の規模に対して聴衆が動ける範囲が制限されすぎているため、コンセプトと実際の体験にかなり開きを感じた。この乖離によって残念ながらこの作品の印象は自称メディアアーティストによる科学おもちゃに近い。先ほども言ったがサウンドアートは古いコンセプトを今ココでやることにとても価値があると思うので、コンセプトを下手にこねくりまわすというよりはどのようにしてそれを今ココで実現するかをもっと大事にするべきだと思う。アーティストはこの展示に満足しているのだろうか。あるいは運営とのコミュニケーション不足で彼ら自身もまた不満があるのだろうか。

最後に

まとめに入ろうとしてふと思い出したのだが、モンハイムトリエンナーレではキャプションが一切なかった。いや厳密には作品の脇に作品名とQRコードが書いてある紙があるのだが、解説のようなものはQRコードから公式サイトに飛ばないと読めないみたいな感じなのでキャプションとしては個人的に不便だと思った。できるだけ自然に溶け込ませるみたいな運営の意図があったのかもしれないが、どこにどんな作品があるのかがわかりにくく、個人的にはややストレスを感じた。

例の如く偉そうなことを書いてしまった。しかしモンハイムトリエンナーレはサウンドアートと呼ばれるものが抱える諸問題をフルコースで抱えたような展示だったと思ったので、だいぶ遠慮はしたつもりなのだが少し批判的になってしまった。育ちと口が悪いことで有名なので許してほしい。最後に念の為書いておくが、個々の作品には興味深いものもあり、ポテンシャルという意味では発展可能性を感じた。ただ、キュレーションがよくなかったので展示全体としては残念な印象がとても強い。

とはいえキュレーションだけが悪いというわけでもないだろう。作品によってはうんざりするようなものもあった。上に紹介した作品にも少し当てはまるが、音楽的美なるものを追求する姿勢を強く感じる自称サウンドアートに出会うと僕は個人的に疲れてしまう。まぁ僕は音楽アンチみたいな側面もあるからな。場合によっては音楽的な面白さを追求するのが効果的だったりもすると思うが、経験上ほとんどの場合は音楽的な味付けによって本来の味が曖昧になっている。いやケチャップかけすぎじゃない?という気分になる。

僕自身が勉強不足なのは承知しているが、サウンドアート界隈にはナイーヴな人口があまりにも多いと思われる。いろいろと理由はあると思うが、それを書くのはまた別の機会にしよう。

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