顔、顔、顔

 その日わたしは、背中にランドセルの重みを感じながら、家まで続く住宅街を歩いていた。放課後の校庭で、友だちと桜の花びらが降る中、鬼ごっこをしてきた帰りだった。
 みんなはまだ学校に残っている。わたしだけ五時の門限に間に合わせるため先に抜けてきたのだ。五年生になったのだから、せめて六時まで延ばしてほしいとお願いしているのに、お母さんもお父さんもなかなか聞き入れてくれない。
 三つ下の弟が通う散髪屋のガラス戸に反射した光に射抜かれて、視界が黄金色に染まった。右手で庇を作り、目を細めてやり過ごす。
 車一台すれ違うのがやっとの狭い道路を渡ると、もう家の前だった。

 玄関扉にはめ込まれた曇りガラスの向こう側は暗かった。いつもなら奥の台所の方から明かりが漏れてきている時間帯なのに、お母さんはどこかに出かけているのだろうか。
 試しにドアノブをひねってみる。鍵はかかっていなかった。
 扉を開ける。背中の方から差し込む夕陽の中に、床の上に手をついて座り込むお母さんの姿が浮かび上がった。うつむいているので表情はわからない。
 わたしが帰ってきたのに、お母さんは動こうとしなかった。いつもの「おかえり」もない。喉の奥が張りついたみたいになって、声を発することがひどく難しいことのように感じられた。 
 三和土に足を踏み入れ、静かに扉を閉める。
「お母さん」
 なぜかわたしの声は震えていた。
 返事の代わりに、鼻をすすり上げる音だけが返ってきた。風邪をひいたのだろうか。それで、しんどくてうずくまっているのかもしれない。
「しんどいの? 大丈夫?」  
 ほっとした気持ちで声をかける。
 途端に、苦しみのたうち回るけもののようなうめき声が、お母さんの身体から漏れてきた。一瞬遅れて、泣いているのだと理解する。
「どうしたの」
 側まで寄って、肩のあたりをなでようとした。その手に鈍い痛みが走る。母が私の手を振り払ったのだと気づくまで、いくらか時間が必要だった。
 呆然とその場に立ち尽くす。と、その時、母が何事かをつぶやいた。内容を聞き取れなかったのに、声の響きだけでわたしを取り巻く世界は一段暗くなった。
「え、今何て?」
 喉の奥から唇へと震えが伝わっていく。
 お母さんの嗚咽が、途切れた。
「あんたのせいや」
 自分の心音が、耳にうるさいくらい響いてきた。
 母の声は、地を這うように低く、わたしの知らない誰かのものみたいだった。
「あんた、おばあちゃんに『おばあちゃんにも裏の顔があるんやろ』とか余計なこと言ったやろ」 
 たしかに昨日、そんなことを言った。それの何が悪いのかはわからなかったけれど、自分はまた何かいけないことをしたのだなと思った。
「あんたがそんなこと言うから、私、おばあちゃんに『あんたが言わせたんやろ』っていじめられたやんか」
 突然、お母さんが全身の毛穴から感情を絞り出すように泣き叫んだ。そのまま子どものように大声を出して泣きじゃくりはじめる。
 身動きが取れないまま、母の苦しげな泣き声に満ちたその空間に佇み続けた。なぐさめてあげたくても、わたしにはどうすることもできなかった。背中をなでようとすれば、きっとまたさっきみたいに振り払われてしまうだろう。
 そのうち背後から差し込む光が弱くなり、ついにあたりは薄暗に包まれた。お母さんの姿が半分影のように見える。
 泣きすぎて疲れたのか、お母さんが静かになった。
「謝ってきて」お母さんがつぶやいた。「おばあちゃんに、『わたしが自分で言ったんや』って伝えて、謝ってきてよ」
 全身が強張るのを感じた。嫌だ、とは言えなかった。その瞬間、わたしの身体はわたしのものではなくなった。
 玄関を出て、左隣に建っているおばあちゃんの家に向かった。

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