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カール・マルクス 2


マルクスが書いた『資本論』(Das Kapital、1867年)は、その著書において、一つの基礎理論を示した。いわゆる、マルクスの価値論であり、「労働価値説」と「剰余価値説」がその内容になっており、非常に有名な学説と言える。

マルクスは、商品には「使用価値」と「交換価値」(単に「価値」とも呼ぶ)があると言った。そして、商品の価値(交換価値)はその生産のために投入された労働時間によって決定されるとした。

しかし、自然物(ダイヤモンド、石炭、石油、天然ガス、魚類など)は、いかなる労働によって、商品になったのか。

採掘、捕獲のための労働、輸送の労働だけで商品になり得るが、マルクスは、採掘とか輸送労働は本質的な労働ではないと言う。従って、マルクス的に言えば、石油、天然ガスなどは労働量の入っている商品ではないとなるが、そんな考えを誰が信じるだろうか。石油は立派な商品である。なぜか。使用価値があるからである。

従って、商品の条件は、使用価値が中心であり、使用価値があるからこそ交換価値も生まれると見る方が適切であることは言うまでもない。

また、記念切手や骨董品のように、保管するだけで価値が大きくなる商品もある。保管が果たしてマルクスの考える労働に当たるかどうか、このように労働量(労働時間)と商品価値を結び付ける考えに固執すると、説明のつかない商品も多く出てくるのである。

アイディアとか情報とか知識も、今日では、非常に高価な商品として扱われているが、それらを労働時間がどのくらい入っているとか、労働量がどの位投入されているとかの基準で、その価値を推し量ることはできない。今日、労働時間の投入の大小が商品の価値を決定するという「労働価値説」は、不合理で陳腐な理論として認識されても仕方ないだろう。

マルクスの言う「剰余価値説」はマルクス価値論の最重要部分であり、その理論の重要性は、資本主義の経済体制の根本的な矛盾を暴露したと言われる点において、高く評価されている。

マルクスによれば、機械は、剰余価値(利潤)を生み出さない不変資本である一方、人間の労働力は価値を生み出す可変資本であるとした剰余価値説は、非常に理解に苦しむ理論であるにもかかわらず、非常に重要視されてきたという代物でもある。

もし機械が剰余価値(利潤)を生み出さないとすれば、企業家たちは、なぜ熱心に機械を導入し、機械による生産活動を行うのか。その理由は簡単である。機械は、実際には、価値を生み出すからだ。

人間の労働が価値を生み出すのであり、機械は価値を生み出さないと強調する理由は、貴い価値を生み出す人間の労働力が、資本家によって搾取されていますよ、ということを、殊更にアピールする狙いがあったという以外にない。

剰余価値(利潤)は、資本家(出資者)、経営者、技術者、事務員、労働者、機械、原材料、土地などの複合的作用において、生み出されるものであり、人間労働(特に、現場の労働者)が剰余価値(利潤)を生み出すにもかかわらず、剰余価値は資本家によって無慈悲に搾取されるとし、資本家=悪者、だから革命が必要という誘導理論を捏造したのである。それが剰余価値説である。

資本主義社会の打倒を目指す理論の構築へと駆り立てられたマルクスであるとすれば、その最も根源的なマルクス自身の心的動機はどういうものであったのか。

ここに、初期マルクスの「人間疎外論」があり、その疎外論とその後のマルクスの革命意識の結び付きは、マルクス理解に不可欠なテーマであると考えることができる。

初期のマルクスはその著作群の中に問題意識を表白し、『ヘーゲル法哲学批判序説』(1843年)、『経済学・哲学草稿』(1843-44年)、『ユダヤ人問題に寄せて』(1844年)などの著作において、マルクスの人間疎外論の足跡を見ることができるが、それらの著作は、自己と人類全体の解放を求めて葛藤したマルクスの根源的な動機が書かれており、マルクスの深層心理を理解することができる。

マルクスの人間疎外論の背景には、次のような四つの理由があった。

第一に、ヘーゲルの精神弁証法の帰結であるプロイセン国家の官僚制を理想的なものとしたヘーゲルの見解を受け入れることができず、むしろ、多くの問題点を認識したこと、

次に、自身の結婚において、父母の承認を得られず、それゆえ、遺産の分与にあずかることができなくなり、父母に恨みを抱いたこと、

第三に、フランスの社会主義・共産主義からいくつかの影響を受けたこと、

第四に、プルードンの影響により、財産について考察するようになったこと、これらの問題意識を深める中で、私有財産制の否定こそ求める答えであると結論したのである。

そのためには、プロレタリアートによる革命が必要であるという結論に至るのである。マルクス自身の人生に対する恨みと怒りを解決する方法が、私有財産制を否定するプロレタリア革命となったのである。

かくして、疎外された人間の苦しみを、宗教(神)ではなく、経済(物質)から解決するという地点に立ったマルクスは、経済的(物質的)に疎外された人間を革命によって、その呪縛と苦痛から解放するという道に進む。

人間の解放は、神(宗教)を否定することにより、自分自身の中に人間の本質を取り戻すことであると、マルクスは主張する。

『経済学・哲学草稿』(『経哲草稿』と略称される)の中で、マルクスの人間疎外論は、唯物論的に具体化され、弁証法的に仕上げられていった。以下の四点がその結論となる。

①労働者は、労働を通じて生産物(商品)を生産するが、資本主義的生産関係の下では、労働者の労働生産物は他者のものとなっている(労働者からの労働生産物の疎外)。

②資本主義社会では、労働行為そのものが、他者(資本家)のものにとなっているので、労働は強制的で、喜びがなく苦痛である(労働者からの労働の疎外)。

③人間の類的本質は、自由な創造活動であるが、労働者から労働が疎外された結果、労働は自身の肉体的生存を保持する欲求を満たすためだけの手段となり、自由な活動が人間から疎外されている(人間からの類の疎外)。

④人間は自己疎外(類の疎外、本来の人間の姿から外れる)され、自己自身と対立すると同時に、他者とも対立するようになった(人間からの人間の疎外、人間同士の闘争、葛藤)。

このように、マルクスは人間疎外の姿を要約したが、この人間性疎外を回復する道が、私有財産制否定の共産主義であり、それの実現であると主張した。

以上、マルクスの思想とは何かを完結に語ってみた。マルクスの理論を絶対的真理であるかのように奉っていた1970年代くらいまでの左翼思想全盛時代はとうに過ぎ去った。しかし、マルクス主義を懐かしんでいる人々も大勢いるだろう。

もし資本主義が不完全であるとするならば、21世紀は、経済活動および経済思想の在り方をめぐる次なるステージに来ていることは確かである。


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