司馬遷:史記の貨殖列伝
「司馬遷という人物」
司馬 遷(しば せん、紀元前145/135年? –紀元前87/86年?)と言えば、古代中国の前漢時代の歴史家で、『史記』の著者として知られています。 周代の記録係である司馬氏の子孫で、父は太史令の司馬談です。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などが主要な業績であり、自称は「太史公」と言います。
父の死後、その遺志を継いで、修史の仕事を進めますが、匈奴に下った将軍、李陵を弁護して、武帝の怒りにふれました。その結果、宮刑(去勢される刑)に処せられ、その屈辱に耐えながらも、歴史を書く仕事を続け、太古から漢の武帝時代に至る通史としての「史記」を完成しました。
古代中国では、殷の時代に遠隔地交易が行われていたことが認められますが、貨幣と商業の発展が見られるのは、春秋戦国の時代(前770 - 前221)に入ってからです。
春秋戦国時代に都市国家が発生し、それがさらに「領域国家」へ移行して、覇権争奪戦争が繰り返されます。そして最後には、秦・漢の古代帝国の成立を見るに至ります。
漢の最盛期には、人口約6000万人を抱える大帝国となりますが、ここに至るまでの春秋戦国時代は市場経済を拡大させていった時期であり、古代中国の高度経済成長期にあたり、マネーサプライ(貨幣供給量)の増大が経済の成長を支えました。
古い都市国家では官に所属していた商工業が、氏族制度の解体および様々な規制の消滅に伴い、商工業を家業として自由に営むことができるようになって、競争と市場の発展が促進されました。
「古代中国の経済を『史記』に記す」
漢の時代、民間経済は自由放任の状態に置かれていました。国家(官)は、商業を蔑視し、官が商業に手を出すことを嫌う風潮でした。しかし、司馬遷はこのような官の「賤商思想」に与(くみ)することをせず、『史記』の中の「貨殖列伝」に見られるように、むしろ、自由な市場経済を積極的に認め、「知恵(先見性)と努力」によって成功し、富を成す「市場の英雄」を惜しみなく称賛しています。
市場経済が発展していない時代と場所では、富は権力について回ります。権力を手に入れることがそのまま富を手中に収める道でした。
しかし、自由に商売ができる市場がある所では、商売に成功して巨万の富を手に入れれば、地位や権力に縁がなくても、富の力によって栄耀栄華を極め、王侯貴族のような生活を送ることができます。そのような人を「素封」と言います。
司馬遷は、素封、大富豪をヒーローとして認めました。それを記録したのが『史記』の「貨殖列伝」であったということです。司馬遷の先祖に、始皇帝時代に鉄鋼を管理する役職にあった司馬昌(しばしょう)がいますが、このような家系において、父の司馬談も漢王朝に仕え、30年間にわたり太史令の官職を務めました。
父の旺盛な批判精神を受け継ぎ、成功した商人たちを英雄視する司馬遷の「貨殖列伝」が後世に遺され、古代中国経済の記録として貴重な資料となっています。
自由な商業活動を称える
「范蠡(朱公)の成功談を好んだ司馬遷」
紀元前5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来する言葉に、「臥薪嘗胆」がありますが、『十八史略』によると、紀元前6世紀末、呉王の闔閭(こうりょ)は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻し、敗れて自らも負傷し、まもなくその傷がもとで病死しました。
闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と答え、その言葉通り、国の軍備を充実させ、自らは薪(たきぎ)の上に臥(ふ)すことの痛み(臥薪)でその屈辱を思い出しながら、まもなく夫差は越に攻め込み、越王の勾践の軍を破ります。
勾践は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねましたが、許されて越に帰国した後、民衆と共に富国強兵に励み、苦い胆(きも)を嘗(な)めること(嘗胆)で屈辱を忘れないようにしました。
強大化して奢った呉王夫差は覇者を目指して各国に盛んに兵を送り込むなどして、国力を疲弊させた上、闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑するなどします。ついに呉に敗れて20年後、越王の勾践は呉に攻め込み、夫差の軍を大破しました。
夫差は降伏しようとしますが、王への復帰を勾践が認めなかったために自殺しました。 呉の夫差は「臥薪」、越の勾践は「嘗胆」で、それぞれ相手方を破り屈辱を果たしたという故事です。
『史記』の貨殖列伝は、古代中国の経済的話題を記述して、後世に遺した司馬遷の著述であるという点で、極めてユニークです。
「貨殖列伝」の中に、范蠡(はんれい)という人物の話が出てきます。彼は越王の勾践(こうせん)を補佐した人物で、勾践は当時華南で強勢を誇った呉を滅ぼし、中国春秋時代後期の五覇の一人に数えられます。
勾践の優秀な補佐役であった范蠡は、突然、補佐役を降りて、自分の名前を朱公と改めて、市場のプレーヤーとして余生を送る決心をします。范蠡は同僚として勾践に仕え、10年にして越を富国にする策を練っていました。
范蠡は市況を読んで、安い時に買い占め、高くなれば売るという商売の鉄則を実行したのです。朱公は成功してたちまち巨万の富を築きました。19年の間に千金を得ること三度、誰でも金持ちと言えば朱公のことだとして、金儲けの神様のように扱われました。こういうサクセスストーリーを、司馬遷は好んだのです。
「経済は基本的に自由放任がよい」
司馬遷は管仲の考え方を重視していますが、その理由は、治世の第一目標は人民の経済的安定であるとしたことでした。
人間は「貧すれば鈍する」で、ろくなことをしない、逆に生活が安定していれば悪いことはしないという彼の人間観を表しています。司馬遷は、物質的な満足を求め、富を求めることは人間の本性であると認めていました。
司馬遷の考え方では、経済運営の最上のやり方は、自由放任であるとしたことです。まるで古代中国のアダム・スミスです。
そして、次善のやり方は利益をもって民を誘導すること、その次は、統制を持って導くことや規制すること、最低のやり方は、官が民と利益を争って、喧嘩をすることであると言っています。
経済活動は基本的に自由でなければならないという司馬遷の姿勢は、自由(市場経済)か規制(統制経済)かという論議が続いてきた経済思想史の核心を衝いたものであり、彼の問題意識の高さを示しています。