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悲しみを食らう男 その2

その夜、貞治は夢を見た。父が家に帰ってくる夢であった。玄関先に父が立っていた。貞治を見て、にっこりとほほ笑んだ。写真の中でしか見たことのない父、現実の記憶には何も残っていない父、二歳の時に自分と母を置いて行った父、その父親が夢の中に現れた。

夢から覚めた貞治はしばらくその夢を思い続けた。目から涙がひと筋、ふた筋と流れ落ちた。息が詰まるような、胸が詰まるような、感情の揺らめきが押し寄せた。布団をかぶって、声を出して泣いた。

眠れなくなった。そのまま起きて、朝が来るのを待ち、会社へ行こうと思った。音楽でも聴こう。無意識に、エルトン・ジョンの曲をかけていた。「ソリー・スィームズ・トゥ・ビー・ザ・ハーデスト・ワード」、何と悲しい曲だろう。また、とめどもなく涙があふれてきた。「ごめんなさい」なんて、こんなきつい言葉がどこにあるだろうか。そう歌うエルトン・ジョンの哀調の調べは貞治をいたく突き動かした。

母を置いて別れるとき、父は母に何と言ったのだろう。ソーリー、アメリカに帰らなければならない、と簡単な言葉を残して行ってしまったのだろうか。エルトン・ジョンが歌うように、ソーリーが父の口から出た最後の別れの言葉だったのか。ソーリーは別れの言葉なのか。貞治には深いことは一切分からなかった。母も一切語らなかった。

外資系の会社に勤務するようになって、6カ月が過ぎたころ、一通の手紙が家に届いた。何と、その手紙の送り主はジョン・フィールディングであった。母に、父からの手紙が届いたことを知らせ、封を切り、二人は内容を読んだ。



「親愛なるミサコへ、そして心から愛する息子、ジョージへ

突然の手紙で驚かせるのではないかと思いつつ、便りを差し上げることを許してください。その後、変わりなく、お元気で過ごしていますか。いつもミサコのこと、ジョージのことを思っており、一度も忘れたことはありません。

日本を去って、20年になりますね。ジョージは、もう、社会に出て働く年頃ですね。どうしていますか。ミサコには、本当に、済まないことをしたと思っています。何も言わず、アメリカに戻ったことを心から申し訳なく思っています。

今、その時の真実をお伝えします。ノースカロライナの父親から、横須賀基地の方へ何度も連絡があり、戻ってくるようにという催促を受けていました。その理由は、父が牧師をしている教会が、もう一つ、教会を作るので、そこの牧師をしてほしいということでした。そのため、ノースカロライナのダーラムへ戻り、牧師の資格を取ってほしいという父の願いでした。一日も早く帰ってきてほしいという父親の願いでした。

私は、今、申し上げたように、ダーラムの街の教会で牧師をしています。妻は、シャーロットと言いますが、娘が一人いて、ルナと言います。娘のルナは今18歳ですから、貞治より5歳か6歳下になると思います。三人家族です。妻と娘には、ずっと、日本のこと(美佐子と貞治のこと)は隠して話しませんでした。しかし、何か後ろめたい感情がいつも付きまとって、真実をいつか話さなければならないという気持ちで一杯でした。

いつも、神に祈る時、自分の罪を許してくださいと泣いて祈りました。それでも完全に許されたという気持ちがなく、牧師として神に仕えながら、一方では、日本でのことを棚上げにして、生きていることが最大の偽善に感じられ、耐えることのできない感情に悩まされました。思い切って、現在の妻と娘に日本でのことを話し、許しを請わなければならない、たとえ離婚のようなことが起きたとしても話そうと考えるようになりました。

そうして、今から2カ月前にすべてを話しました。シャーロットは少し動揺したようですが、聞き終わったとき、よく話してくれたと言いました。あなたの誠実さを見たとも言いました。それは思いがけないことであり、私の予想よりも妻の態度が寛容であったことがどれほどわたしにとって救いとなったか分かりません。

妻を通して、娘のルナが私のことを聞いた時、少なからず、ルナの動揺も大きかっただろうと考えましたが、シャーロットはお父さんの正直さと誠実さを神もお許しのことであろうから、ルナもお父さんのことを許してあげなさいと言った時、そうするとルナが答えたことを私に伝えてきました。

私は、こうして20年に亘る心の重荷を下ろすことが出来ました。今、深く、妻のシャーロット、娘のルナに感謝しています。私が何も言わず、日本を去ったことをシャーロットは気にして、手紙を書いて真実を伝えたらどうかと言ってきました。妻のアドバイスに従い、このように手紙をしたためることができました。本当にシャーロットは、寛容な心の持ち主であると深く、深く神に感謝しています。

ミサコ、元気でいますか。一人でいるのですか。再婚しているのですか。ジョージと一緒に暮らしていますか。この手紙は、昔の住所のところですが、そのまま、無事に届いていますか。それとも、どこかに引っ越しましたか。私は、現在のミサコとジョージの状況が何も分かりません。もしこの手紙を受け取ったら、返事を下さい。」



美佐子も貞治も涙があふれた。ジョンは、アメリカで牧師をしているのだ。結婚して一人の娘がいる。美佐子のことも貞治のことも、片時も忘れたことがないジョンであった。20年間、自分の罪をどう償ったらよいか、苦悶し、神に許しを請い続けていたジョンであった。

ジョンの手紙によって、真相を理解した美佐子と貞治は、手紙を書いた。



「懐かしいジョン!

あなたから届いた手紙を、貞治と共に読んで、ただただ驚くばかりでした。そして、二人して、とめどもなくあふれる涙をどうすることもできませんでした。

どうして日本を、突然離れたのか、今までずっと分からなかった謎が、ようやくあなたの手紙で全て解けて、あなたのことを理解しました。

今は牧師をなさっていらっしゃるのですね。奥さまと娘さんの三人でお過ごしとのこと、幸せに過ごしていらっしゃる様子で何より安心しました。生きているやら死んだのやら、何も分からないことだらけで、心配していましたが、立派なお仕事をしておられることを知って、あなたの姿が見えなくなって以来、初めて安堵の気持ちに包まれました。

20年の歳月はあっという間で、わたしたちをどのように変えたのか、少なくともわたしは貞治一筋に生きてまいりました。大学を卒業して、現在、外資系の会社に勤務しています。

私が19歳の時、横須賀のカフェで働いていた時、運命の不思議なめぐりあわせで、わたしたちは同居生活を始め、貞治が生まれました。貞治を生んだとき、私は20歳で、人生というものをまだ理解できず、ただ生まれた子供の可愛さに見とれていました。

あなたの姿が見えなくなってからというもの、貞治を育てるために一生懸命働くのが私の人生となり、それ以外にはありませんでした。再婚を勧める親せきや友人などもいましたが、私は貞治に人並みの教育を与え、一人息子を立派に育て上げるという考えしかなく、すべての再婚話を断りました。

あなたと過ごした昔のままの3DKのマンションの部屋が、今でも、わたしと貞治の住処となっています。マンションは、10年前に改築され、新しくなっていますが、間取りは変わっていません。昔のままです。

わたしは、40歳を超え、40の半ばになっていますが、ときどき、横須賀の街で、貞治と一緒に買い物をすると、アメリカの若い兵士さんと恋をしている女性として間違われることが多く、本当に、笑ってしまいます。」



まだまだ多くの文章を書き連ねた美佐子であったが、ジョンからの手紙で、心の整理をしようにもすることができなかった過去を、少なくとも整理できたことが大きく、貞治も同じで、二人は一つの区切りをつけることができたと感じた。分からなかったことが分かったのだ。それにしても、父は牧師をしているという事実は貞治を驚かせた。

ジョンの手紙を契機に、貞治は幾分明るい気持ちになれたのか、会社での様子も変わっていった。そのことを見逃さなかったのは、同じ会社の同僚キャサリンである。

「ジョージ、何だか明るくない。ここ数日、少し暗さが取れたような気がするわ。いいことよ。何かあったのね。」

「今、仕事中だから、後で話すよ。昼休みに、近くのスターバックスで。」

そう言って、二人は、スターバックスで会うことにした。昼休みの時間、そこで、アメリカにいる父から突然手紙が来たことを話し、手紙に書いてあった内容についても、すべて話した。

「そう、そうだったのね。あなたの明るくなった理由が分かったわ。おめでとう。あなたは、あなたが背負っていた不可解な過去の呪縛から、今やっと、解き放たれたのね。あなたの父は牧師をしていたというのも驚きだわ。ところで、その、あなたのお父さんの名前は何という人なの。確か、住所はノースカロライナと言ったわね。ノースカロライナは私の故郷なのよ。」

「ノースカロライナのダーラムという街に住んでいる牧師だよ。名前は、ジョン・フィールディング。」

「何ですって!ジョン・フィールディング!私が通っていた教会の牧師さんじゃないの。そんなことってあるの!ジョン・フィールディング牧師が、あなたのお父さん!?」

「間違いないよ。ジョン・フィールディングという人だよ。」

「ああ、なんということでしょう。私の人生は、ジョン・フィールディング牧師に何度助けられたか分からないわ。命の恩人よ。素晴らしい牧師さんだわ。」

驚くべき展開になった物語の真実に、二人とも言葉を失った。



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