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ビービーなひとびと その4

わたしは、常々、南米に激しい憧憬の念を抱いていた。と言うのも、色とりどりの鳥類がアマゾンの原生林に生息し、その鳥たちの華麗な色彩は圧倒的な魅力をわたしに投げかけ続けていたからである。もし、わたしが南アメリカを訪れなければ、鳥類のひしめく南アメリカの大陸は永遠に私を恨むであろうと言わんばかりの魅了が私を覆い包んでいた。

私に負けず劣らず、ベティもまた、南米のある場所に強く惹かれていることが分かった。それは南米北部に広がるギアナ高地を有するベネズエラであった。ベネズエラのどこに彼女は惹かれたのかと言えば、エンジェルフォールと呼ばれる滝であった。エンジェルフォールは、アウヤンテプイと呼ばれるテーブルマウンテンから落下する巨大な滝であり、その落差は世界最大の落差979メートルを誇るものであった。

私はアマゾン流域の鳥類を愛でることが願望の的であったし、ベティはエンジェルフォールを訪れることが悲願であったという意味で、南米大陸が二人の共通の関心であることを理解したが、もうひとつはっきりしない点があったので、彼女に尋ねた。

「ベティ、君のエンジェルフォールへの熱い思いは分かったが、それを見てどうするんだい。ナイアガラの滝やイグアスの滝だってある。エンジェルフォールへの特別な思い入れの理由を教えてもらいたいね。」

「ただ見るだけなら、わたしにとってそれほど意味はないわ。私の本当の目的は、あのエンジェルフォールの絶壁を下から頂上まで登ることなの。約1000メートルの直立した絶壁を登攀するのよ。一切の道具を使わないで。」

「何だって!真っ直ぐに切り立った1000メートルの絶壁をよじ登るって!絶対に不可能だ。今すぐそのばかげた考えを捨ててほしい。命は大切だ。まだ君は若い。これからの人生を大切に生きてほしい。どうして、そんなに早く死にたいのか。」

「私が死ぬかどうかはわからないわ。私は死ぬなんてちっとも思っていない。いいえ、その反対よ。私は登攀できると思う。私が登攀して、命が残っていたら、あなたと祝杯をあげましょう。きっと、そうなるわ。」

「何の根拠があって、そんなに自信を持つんだ。絶対、だめだ。君を死なせるわけにはいかない。もっと人生を大切にしてくれ。きみは自分がクモか何かだとでも思っているのかい。それとも、何か吸盤みたいなものがきみの手足に付いているとでも言うのかい。」

「よく言ってくれたわ。私はクモになってあの絶壁を登って行くの。私が極めた武術、と言うより、忍術ね、その術を使ってよじ登っていくのよ。この忍法は、秘術中の秘術で、自分の体を或る方法で変化させる。手足に強い念を送り、吸着力を高めるという準備が最も重要なことになるわ。日本の飛騨山中に隠れ住む仙人から密かに伝授された、世に知られざる秘術なのよ。私を含め、たったの3人しか伝授されていない、そういう日本の古忍法よ。」

「うーん。忍法の秘術だか何だか知らないが、30メートルや50メートルをよじ登るという話じゃなくて、1000メートルなんだよ!垂直に切り立った1000メートルをどうやってよじ登るんだ!君は武道、武術、忍術にのめり込んでいるうちに、不可能を可能と信じる妄想の念にとりつかれてしまったようだ。」

「妄想かどうか、今に分かるわ。」

私は彼女を理性の領域に引き戻すことはできなかった。彼女はエンジェルフォール登攀の可能性を信じて疑わなかった。B.Bの同一イニシアルから来る偏執的な固着性は、1000メートルの絶壁をよじ登るというとんでもない、妥協なき目的貫徹の意志を生み出していた。そのような無謀な行動を阻止しようとする私の説得の試みは無残にも打ち砕かれた。

彼女は、「それ」をいつ決行するのだろうか。わたしはそのことが気になり始めた。エンジェルフォール登攀、この無謀極まりない計画はいつ実行されるのだろう。

「ベティ、君はその気違いじみた偉業をいつ決行するんだ。教えてくれ。心配で、心配でならないから、ぼくも付いていくことにする。君の葬儀を厳かに執り行う義務があると、ぼくは感じているんだ。」

「あなたに、私の葬儀なんか頼んだ覚えはないわ。一体、あなたは私が死ぬということをどうしてそんなに決め付けたいの。そんなに簡単にわたしは死なないわ。私の死を見届けたいという気持ちで同行するのなら、そんな同行は御免こうむるわ。」

「ごめん、ごめん。別に死ぬと決めつけているわけではないが、その可能性が非常に高いというか・・・。」

「あなたが私に同行したいのなら、条件があるわ。わたしの登攀の成功を記録する記録班長としてなら許すわ。ビデオカメラを持って、私のエンジェルフォール登攀を撮影してほしい。一部始終をね。ベティというエンジェルが、エンジェルフォールをよじ登り、フォールすることなく、見事にアウヤンテプイの頂上に立つ。あなたは、私の歴史的な成功を記録するビデオカメラマンよ。それ以外のことで、私に付いてきてはダメ!」

「参ったな。いいよ、分かった。そうするよ。君の成功を無事に撮影し終えたら、ゆっくりとぼくはアマゾンの鳥たちをウォッチングして至福の時間を過ごすことにする。」

ベティは夏の7月25日から8月7日までの2週間、有給休暇を取った。わたしもそれに合わせて同じく有給休暇を取った。会社の方では、ふたりが全く同じ時期、同じ南米行きの目的で有給休暇を要求してきたのを見て、二人は完全にできており、まもなく結婚するのだろうと勝手に推測した。

ベネズエラの首都カラカスの北方に位置するシモン・ボリバル空港に着いたのは、7月25日の夕刻であった。その日は、ヒルトン系のアルバ・カラカスにそれぞれシングルの部屋を取って宿泊した。

モダンなカラカスの市街地を見る限り、この国のどこに原生林があるのだろうと疑わざるを得ないような感覚に襲われるのであるが、ひとたび、オリノコ川を遡り、南の奥地に足を踏み入れると、アマゾン川水系とその流域に繋がる果てしない原生林が国土を覆っている。そして、目指すギアナ高地もその中にあるのだ。

私とベティがベネズエラを訪れた時期は、雨期に当たっており、さぞかし、エンジェルフォールの落下水量も多いことだろうと思われた。登攀のためには、むしろ、乾期が良かったのではないかとベティに尋ねたところ、答えは意外なものであった。彼女は、わざと、雨期を選んだということであった。乾いた絶壁よりも、濡れた絶壁の方が、彼女の忍術を使うには都合がよいと言った。どういうことか俄かには理解できなかったが、壁面への吸着効果が一層高まるという忍法の秘術によるものらしい。

翌日、7月26日、私はベティとセスナ機へ乗り込み、カラカスからギアナ高地のカナイマ国立公園へと飛んだ。セスナ機から眼下を見下ろすと、一面、原生林の広がるギアナ高地の光景が目に入った。カナイマの飛行場に到着してから、その先は、ボートクルーズでカラオ川を遡り、さらにチュルン川をさかのぼっていった。

ボートクルーズの操縦士によれば、この時期、雨が多いので、チュルン川を遡上できるが、乾期には水量がなく、チュルン川でボートを走らせることはできないということであった。まことに、ベティの雨期選択の判断はラッキーと言えた。カラオ川の左右の森の景色、またチュルン川の両岸に広がる熱帯雨林の景観を眺めながら、ついに来たぞという実感が沸々と湧き起こった。

やがて、エンジェルフォールの近くのキャンプ場へ着いた。その日は、そこに宿泊し、次の日にエンジェルフォールを目指すことにした。蚊帳の付いたハンモックの中に身を沈めて宿泊するという現地風のキャンプ場には、日本から来た3人の男性客以外には誰もいなかった。 

わたしは日本人3人に話しかけ、彼らの名前を訊いた。それぞれ、林田広志(はやしだひろし)、勝俣和彦(かつまたかずひこ)、中野則安(なかののりやす)と名のった。吃驚仰天!三人とも同一イニシアルの持ち主ではないか。H.Hも、K.Kも、N.Nも、すべて同一イニシアルの三人であり、わたしと同じ特性を持つ人間たちであった。

ああ、エンジェルフォールを訪れるという好奇の旅を志す人は、どこか常人たちとは違う人間特性を有しているのだろうか。

7月27日、現地の案内人に付き添われて、私とベティ、それに日本人3人は、エンジェルフォールを目指し、森の中のハイキングコースの道を進んだ。早朝のジョギングですっかりスリムになった私の体は、この熱帯雨林の中を歩くことに少しの抵抗も感じなかった。ベティほどではなかったが、わたしの体はワイルドな活動にも相当に順応できるものになっていた。

森の中を歩いている私を喜ばせる出来事があった。何と、鳥類を愛でる私の目に入ったのがオオハシ(トゥーカン)であった。巨大な嘴(くちばし)を持つオオハシが、南米の森にようこそおいで下さいました、と挨拶してくれているようなしぐさで樹上からわたしをじっと見つめてくれたのだ。人懐っこい愛嬌のある奴だ。

われわれは、最初は平たい道を進んだのであるが、次第に緩やかな傾斜を登る感じとなり、汗の噴き出しも増した。ベティはほとんど何の苦もなく身軽に忍者のごとき動きで原生林の進軍を楽しんでいるように見えた。約90分も歩いたであろうか、目の前にエンジェルフォールの偉観が突如として現れた。わたしは、その圧倒的な迫力と荘厳な神秘性に言葉を失った。ベティはどうかと見ると、

「エンジェルフォール、私のエンジェルフォール!ついに来たわ。私の長年の夢がかなう瞬間がやってきたのね。こんにちは、エンジェルフォール!」

そう叫んで、ベティは、大きく両手を広げ、背伸びするかのように両の腕を真っ直ぐに高く挙げたのである。そして、エンジェルフォールに向かって、両手を振り、ウェーブを送った。これがエンジェルフォールに送った彼女の挨拶であった。

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