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音楽から人生を学ぶ その3

ベートーベン

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1857)の家庭は、父親のヨハン・ベートーヴェンが宮廷楽団の歌手(テノール)を務めているから、そして、父親だけでなく、祖父もそうであったので、音楽的な家庭環境には恵まれていたと言える。

母親のマリア・マグダレーナは宮廷料理人の娘であった。従って、ベートーヴェンは父親の血統から音楽家としての才能を受け継いだと見てもよいだろう。

しかし、愛情にあふれた家庭であったかどうかは、疑問符が付く。というのは、父親が酒に溺れ、収入も不安定であった。

その父親は息子の才能を当てにして、音楽のスパルタ教育をルートヴィッヒに施すのである。それで、ルートヴィッヒは、幼い頃、音楽自体がすっかりいやになってしまった時もあった。

その才能は、8歳でケルンでの演奏会に出演したことでも分かるが、11歳のときから、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに本格的に師事する。

ネーフェは、ピアノ、オルガン、作曲を教えることのできる当時のドイツでは有名な音楽家であった。このネーフェがルートヴィッヒの才能を見込んで、大きな愛情を注ぎ込んでいくのである。

16歳の時に、ベートーヴェンは母親のマリアを失い(肺結核)、失職していた父の代わりに、父と幼い兄弟たちを支えるための家計に奔走する日々が続く。

いくつもの仕事を掛け持って自身を酷使した。22歳の時には、父ヨハンが他界する。父の死と前後して、ベートーヴェンは、ハイドンに弟子入りすることになり、ピアノの即興演奏の名手として、名声を博していく。


ベートーヴェンは、20代後半から、難聴の症状がひどくなり、そのことが彼を大きく苦しめる。音楽家としては、致命的な聴覚喪失であり、彼は絶望的な気持ちに襲われるのである。

28歳のころには、ますますひどくなって、最高度難聴者とされた。自殺も考えたベートーヴェンであったが、苦悩を乗り越え、生きる意欲を取り戻して、音楽家としての道を再び歩み始める。

「たとえ障害があっても、それを取り除かなければならない。この考えが絶対に確固たるものと見做されるに違いない」というベートーヴェンの言葉は、難聴という障害を取り除くという考えは絶対的に確固たるものと思い定め、強い意志によって生きる彼の姿をはっきりと示している。

ほとんど、全く聞こえない無音の世界から、彼は奇跡的な作曲家としての創作に没頭し、しかも歴史的な名曲の数々を、難聴の中で生み出していく。

聞こえないというハンディがどういうものか、経験した者でなければ分からないわけだが、音の遮断された世界にポツリと存在する自己を見つめる以外にない孤高の世界とすれば、ベートーヴェンの心象は、極度に内面化されたスピリチュアルな世界であったということになる。

耳では聞こえないが、もう一つの天からの声だけはしっかりと心の中に聞こえるといった第三の耳が与えられた状態である。聞こえないことによって、神とともに音楽を作る新たな世界へと飛翔していたことだろう。


ベートーヴェンの難聴問題などを考えると、実際に、結婚生活を送るということは、ハードルの高いことであったと言わざるを得ない。結婚する相手も、相当に、覚悟が要ることだろう。

「不滅の恋人」あてに書かれたと言われる1812年(42歳)の手紙が、3通見つかっているが、それが誰であるかは分かっていない。

結婚、家庭という人生の中心テーマを考えたことのないベートーヴェンであったはずはない。結婚はしたかったというのが本当だろう。「不滅の恋人」への手紙は、その何よりの証である。

音のない世界で、神とともに作曲するベートーヴェンは、その創作の中にすべてを投入し、現実の結婚を忘れようとしたのかもしれない。

「不滅の恋人」に思いを寄せながら、音のない世界というが、音がなかったわけではない、音が聞こえないだけで、心の中には、無限の音が鳴り響く音楽の宝庫があったのだ。

人には聞こえない心の音を紡いで、名曲の数々を作り上げたベートーヴェンは「不滅の恋人」にそれらを捧げたことだろう。

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