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シェイクスピア参上にて候第八章(ニ)


第八章 悲鳴を上げるギリシア

(二)ギリシアを見守るアクロポリスそしてエーゲ海の風

鶴矢支局長とガブリエル・ロドリゲス、それに山口ひばりさんの三人がロンドン・ヒースローをアメリカン航空で出発したのは午前六時五十五分、そしてアテネ国際空港に着いたのが昼の十二時四十分でした。

時差を差し引くと、三時間四十五分のフライトということになります。

エレフテリオス・ヴェニゼロス空港の名でも知られるアテネ空港に出迎えてくれたのは、鶴矢支局長の一人息子である子規くんでしたが、彼を見るや、山口ひばりさんが驚きの声を上げました。

「わあ、でっかい。身長は一メートル九十センチぐらいありそうですね。あなたのお父さんのもとで働いています。山口と言います。よろしくお願いします。」

「鶴矢子規です。一メートル八十八センチです。九十まではいきません。中学、高校とバスケットをやっていました。今、アテネ大学で学んでいます。」

久しぶりに息子に会った鶴矢先輩は、何だか逞しくなっている子規くんの姿を見て、安心し頼もしい気持ちにもなりました。

「お父さん、ホテルの予約はしっかりしておいたよ。今、大学での授業内容を理解できるようにと、時間があればギリシア語を勉強しているところだよ。

プラトンやアリストテレスを古代のギリシア語で読みながら学ぶのと、一八三〇年の独立以降の現代ギリシア語でいろいろなことを学ぶのとでは、同じギリシア語でもかなり違うからね。

それは、歴史の古い国ではどこの国でも同じ事だと思うけれど。とにかく毎日、ギリシア語と格闘しているよ。」

「そうか、大変だね。勉強というのは何でも本格的にやろうとすれば、大変でない勉強なんてないからね。頑張るしかないよ。

それはそうと、山口ひばりさんとはお互いに簡単な紹介を済ませたようだが、もう一人ガブリエル・ロドリゲスが一緒に来たよ。」

「初めまして。ガブリエル・ロドリゲスです。あなたのような背の高い日本人をあまり見たことはありません。

わたしは、十二歳から十七歳まで日本で暮らしていましたから、日本が大好きです。父が六本木のスペイン大使館で働いていましたから、わたしはよく渋谷の街で過ごしました。本当に楽しい思い出になっています。今でもすぐに東京に飛んでいきたいくらいです。」

「鶴矢子規と言います。嬉しいなあ。東京で六年間過ごされたんですね。

ぼくの祖父母は、今も健在で、下北沢に住んでいます。鶴矢弥太郎(八十四歳)と富美子(八十一歳)の老夫婦ですが、とても仲が良く、ぼくの父は長男として生まれています。

父の妹の香苗おばさんは三鷹に住んでいます。武者小路香苗になっていて、娘さんが一人います。」

「ははは、もういいよ、その辺で。わが一族郎党のことを細かく話し始めてしまったね。

ところで、ガブリエルの母親がギリシア人であるということは聞いているが、その御両親は健在ですか。また、親戚などはどうされていますか。」

「よく聞いてくださいました。そのことをきちんと話したうえで、今回のわたしの行動計画をお話ししたいと思っておりました。

わたしの母のギリシア名は、ヘレナ・メルクーリですが、現在はヘレナ・ロドリゲスと名乗っています。

メルクーリ家はテッサロニキというところにあり、母の父母は二人とも八〇歳を超えていますが、そこで、まだ元気に暮らしています。

母には弟がいて、わたしの叔父にあたるバシリウス・メルクーリさんになりますが、実はこのアテネに住んでいて、アテネ市役所で働いています。

今回はこのバシリウス叔父さんにいろいろギリシアのことをじっくりと訊いてみたいと思っています。そして、テッサロニキの祖父母にも会いに行きたいと思っています。祖父母は心から喜んでくれると思います。

この一週間の滞在のなかで、最初の三日間は皆さんと一緒の行動をして、後半の三日間を叔父への訪問、そして母の実家のあるテッサロニキを訪ねようと考えていますが、それでよろしいでしょうか。

ツルヤ支社長のお許しがあれば、それでいこうと思いますが。」

「まったく問題ない。それでいいよ、ガブリエル。今回のカギはそのバシリウス叔父さんだね。

彼の情報が現在のギリシアを考えるに当たって、非常にリアルなものとなりそうだ。

何しろ、ガブリエルの仕事に期待せざるを得ないのが、今回のギリシアだからね。さあ、お腹も空いたぞ、子規、どこかいいところないかな。」

鶴矢子規くんが案内したのは、アテネ市内のレストランでした。空港からアテネ市内へは、子規くんが準備したレンタカーのバンでスムースに移動、まずは予約している「オミロスホテル」にチェックインして荷物を部屋に入れ、いざ、昼食となりました。

シンタグマ広場というアテネの中心的な場所があり、その近くにホテルも予約されてあったので、手頃なレストランはあちこちに見られました。

子規くんが案内したのが、「ザ・グレコズ・プロジェクト」というお店で、リーズナブルな値段と美味によって人気のあるレストランであるということです。メニューの数も多く、美味しそうな食事の数々が注文を待ち受けていました。

鶴矢先輩は息子の子規くんと、こうして久しぶりに寛いで食事ができるのを何よりも喜んでいる様子で、それは、山口ひばりさんから見ても、オフィスで見る鶴矢支社長の姿とはまったく違うものでした。一人の父親を見たのです。

それにしても、一メートル八十八センチが立ったり座ったり、歩き回ったりする姿は目に付くものでした。

着いたその日は、みんなでグレコ・プロジェクトでの昼食を済ませた後、街の中を散策しました。

市場にはたくさんの食材が並び、特に、オリーブ、それにヒツジやヤギから取った白いフェタチーズの豊富なことには自然と目が行きました。

地中海の海の幸も多く、ギリシア人はさまざまの食を楽しんで、旺盛な食欲を満たしていることが市場から伝わってきました。また、お土産を売っているお店も多くありました。

街のあちこちに派手な落書きが多いことにもびっくりしましたが、何か書かざるを得ない芸術的衝動(?)が強い国民なのだろうと、勝手に自分の心に言い聞かせていたのは、山口ひばりさんです。

歩いていると現地の人々と観光客とが入り交じり、どちらが多いのか分からないほどであり、この勢いだと、国家としての観光収入は大変なものではないのか。

従って、ギリシア危機とか何とか叫ばれても、びくともしない底力がどこかに潜んでいるようなお国柄かもしれないなどと思ってしまうほどでした。

周りが心配するほど危機にはなりません、ギリシアはどんなことがあっても生き残るのです、と叫んでいるようなギリシアを感じてしまうのでした。そういう思いがふっと鶴矢支社長の心をよぎりました。

子規くんにその辺のことを訊いてみると、案の定、ギリシアは年々、観光客が増え、観光収入も大きく上がってきているということでした。

観光に頼り過ぎてダメだ、過去の栄光にしがみついて生きている、というギリシア国家の姿が聞かれることも多いのです。

しかし、下手に現代工業の重厚な設備がエーゲ海沿岸に建ち並んだり、煙突から煙が上がったり、地中海のあの独特の種類に分かれる青、すなわち、コバルト・ブルーとかセルリアン・ブルーとかターコイズ・ブルー、それにエメラルドグリーンなどと言われる美しい海に工業汚水が流れ込んだりしたら、その瞬間に観光客激減の憂き目を見るだろうと考えると、ギリシアは徹底的に観光立国の道を歩めばよいという気持ちになるのも不思議ではありませんでした。

その国なりのお金の稼ぎ方が当然あってもよいわけです。

さんざん歩き回った挙句、気が付けば、夕暮れ時のいい時間になっており、ホテルに戻って食べるよりも、このまま手頃なレストランに入って食べようということになりました。

「さあ、タヴェルナに入って食べるとするか。食べるというのに「食べるな」とはこれ如何に。ギリシアの食堂は面白いね。」

一人悦に入って、ダジャレを飛ばしている鶴矢先輩の姿は、余程、ギリシアに来て、息子の子規くんに会い、また、アテネの街を練り歩いて、気持ちが解放され、御機嫌よくなったのか、ロンドン・オフィスでは絶対に見ることのできない姿であると、山口ひばりさんがメールをよこしてくれました。

わたくしも思わず笑ってしまいました。

子規くんは「アルカディア」というレストランへみんなを連れて行きました。気軽に食べることのできる感じの良いレストランでした。

鶴矢先輩は、できるだけギリシア料理と銘打つものを食べようと提案したところ、そのリクエストを受けて、子規くんがそれらしいものを次々にお店の人に注文してくれました。

オーダーしたものは、まず、ホルタという青野菜サラダのようなもの、そしてファヴァというレンズマメを煮込んだ前菜を注文しました。

続いてケフテデスというミートボールのようなもの、そしてムサカというジャガイモ、挽き肉、バター、チーズなどをこんがりと焼き上げた料理、イェミスタ、つまり、中をくり抜いたピーマンやトマトの中に挽き肉、コメ、ミックスした野菜などを詰め込んでオーブンで焼き上げたもの、豚肉、鶏肉などを串刺しにしたスヴラキなど、あっという間に迷うことなく注文してしまいました。

ギリシア料理は、オリーブオイルやレモン果汁、バター、チーズなどはほとんどの料理に顔を出す万能調味料的な役割を果たしているといった印象を受けました。

肉と言えば、牛肉や豚肉、鶏肉は勿論ですが、ヒツジとヤギが食せられることも多いといった食習慣をギリシアの人々は太古の昔より守っているということです。

注文の品々がツーマッチであったためか、山口ひばりさんは味見をするような少しばかりつつく食べ方をして、早くデザートが欲しいといった様子でした。

その山口さんの期待に応えるかのように出されたのが、バクラヴァというスイーツでした。焼き上がった三角形の形状をしたものにシロップをかけて食べます。

山口さんは、このバクラヴァが相当気に入ったと見えて、「ヤミー、ヤミー(美味しい、美味しい)」とかわいい声を上げ、次々に口の中に入れて、味わっています。

このスイーツは、フィロ(パイ生地)、ピスタチオ、クルミ、アーモンドなどでできており、焼き上がったサックリ感が何とも言えません。お仕舞いにはフラッペが登場し、ギリシア料理の美味タイムはお開きとなりました。

ホテルに戻り、その夜は各自、ゆっくりと休みました。

子規くんは父親のダブルの部屋に入って、明日の計画などを父親とじっくりと練り合わせる時間を持ちました。

今回の案内役は完全に息子の子規であるという父としての満足感が、息子の考え抜かれた提案に十全の信頼を置く姿の中にはっきりと示されていました。

翌日のアテネ観光は、子規くんの提案に従った行動になります。四人分の共通入場券を子規くんが買っていたので、そのチケットでアテネの遺跡巡りをすることにしました。

一枚のチケットで七か所に入場できますが、全部回らなければ、ちょっと無駄になるような気持ちになります。

アクロポリスの丘に建てられたパルテノン神殿は、その建築の始まりを紀元前447年としていますが、それから建物および装飾などを含めると、十数年の歳月をかけて完成したと言われています。

完全な形ではないとは言え、二千数百年の歳月を経て、悠然と聳え立つパルテノン神殿が、アクロポリスの丘に立ってギリシアの歴史を見つめてきたという事実は、この遺跡がギリシア古代史の圧倒的な遺跡であることを告げるものです。二千数百年分のメッセージが詰まっているのです。

子規くんのガイドにより、丘へのアクセスとして西の入り口はいつも混雑しているので、南東の入り口から登ることになり、ほとんど人がいないというガラガラぶりで大当たりでした。

丘の頂上への途中、ヘロド・アティクス音楽堂を目にしたとき、鶴矢先輩は、この音楽堂でイタリアのテノール歌手、アンドレア・ボチェッリが歌っているユーチューブを見たことがあるのを思い出し、古代の劇場が今でも使用されているその息の長さに感嘆せざるを得ませんでした。

アクロポリスの丘を上り詰めると、世界中からの大勢の観光客、欧米系、アジア系の人々が目白押しになって、パルテノン神殿を取り巻き、ガヤガヤと見学しています。スマホを向けて撮影に余念がありません。

古代アテネを守護する女神アテーナーを祀る神殿であるというパルテノン神殿ですが、アテネ市内の東西南北を一望できるアクロポリスの絶妙なロケーションはアテーナー女神にとって睨みを効かせるにはこれ以上ありません。

長い歴史の中で様々な艱難辛苦をくぐり抜け、今日、パルテノン神殿の姿を世界に誇っているのも、アクロポリスの丘があってこそのものです。

丘の規模はそれほど大きなものではなく、小高い小さな丘と言っていいのですが、アテネの街を守護するには十分でした。

政治、経済、宗教、そのときどきの為政者たちの判断と要請に従いながら、アクロポリスの丘はパルテノン神殿を中心にその役割を果たしてきたのです。

さまざまな思いが去来する中、アクロポリスを降りて、古代アゴラを見せたいという子規くんのガイドに従いました。

アグリッパ音楽堂、アタロスの柱廊、巨人とトリトンの像、ヘファイストス神殿、アギイ・アポストリ教会など見て回りながら、この古代アゴラの一帯が好きで、子規くんはしばしばここを訪れると言います。

古代アテネの生活空間であり、ソクラテスやプラトンがそのあたりを練り歩き、人々に語り掛けているような雰囲気が感じられるという古代へのタイムスリップ感覚を子規くんは語りました。

そのほか、アクロポリス博物館、ゼウス神殿、アテネ国立考古学博物館などを見て、鶴矢支社長は、古代ギリシア文化の水準の高さをしみじみと感じ、ソクラテスやプラトン、アリストテレスを輩出した歴史的背景が、この文化の高さにあったのだと納得せざるを得ない気持ちになりました。

たとえば、紀元前十六世紀のミケーネの王墓から発掘された大小のきらびやかな金細工が、アテネ国立考古学博物館に展示されているのを見たとき、鶴矢支社長はいろいろと考えこみました。

ギリシアとその周辺の多くの島々を含む一帯は、紀元前二十世紀から三十世紀にかけて、すでにクレタ島を中心とするミノア文明の隆盛があり、ギリシア本土の南端にあるミケーネへと文明がギリシア本土の陸地を踏んだ後、その文明がさらにアテネへ北上する、いわば、海から陸への文明の移動が見られると感じたのです。

そのアテネの文化が隆盛を極めたとき、あのパルテノン神殿の建立があった、すなわち、紀元前五世紀のアテネであり、それを現在の人々が観光しているということになります。

アテネに開花した文化の根っこには、クレタ島からミケーネへと辿った海洋性の強い文明があると感じつつも、さらに時代を遡って、クレタ島を南下すれば、そこにはエジプトがあり、クレタ島から北東の方角を目指すと、ロードス島を経由して、すぐに小アジア(現在のトルコの位置)にぶつかります。

まさにエジプトとクレタ島と小アジアが、三角形の海洋航路の構図を持つことによって、その地理的な関係から、クレタ島の重要性がはっきりと浮かび上がってくるのです。

こんなことを様々に感じながらアテネ観光を楽しんだ鶴矢先輩でありました。

一日をかけて、息子の子規くんのガイドでアテネ観光を終えたわけですが、みんなは自由時間を持とうということになり、昼食は一緒でしたが、夕食はシンタグマ広場やオミロスホテルの近辺で各自食事をするようにしました。

鶴矢先輩の父子は二人で、山口ひばりさんはギリシア語の理解ができず心細かったので、ガブリエルと一緒に動きました。

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