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魂の宇宙旅行 ~パイプオルガンに乗せて~ その1

音村翔一(おとむら・しょういち)は、バッハの「トッカータとフーガニ短調」をこよなく愛している。バッハの作ではないとする説も聞くが、そんなことは気にしない。とにかく、音村はこの曲が好きなのである。荘厳なパイプオルガンの重厚な音色の中に、彼の魂は融合し、夢見心地となる。証券マンとして、多忙な毎日を送っている音村にとって、心を安らかにし、おのれの魂に生気を吹き込む貴重な時間が、「トッカータとフーガニ短調」に向き合うひと時なのである。

特に、音村が愛して聴き込んでいるのは、カール・リヒターのパイプオルガン演奏のものと、ストコフスキー指揮によるオーケストラ演奏のものである。二つは、対照的な音響世界を示しているが、それぞれ訴えかけてくるものがある。

アメリカのウォール街の金融崩壊の異変で、欧州は連鎖的に金融崩壊に巻き込まれ、欧州ほどではないにしろ、日本も直接間接、影響を受けて、ここ最近、心配になったお客からの問い合わせが殺到している。お客からの面倒な相談で多忙な毎日を抱え込んだ音村は、いつもよりも精神と肉体の疲労感が強く、それゆえ、彼の心身は大いに癒しを必要としていた。

「音村さん、この混乱、一体、どうなっちゃうのかしらね。もう、完全に、パニックに近いわ。このままじゃ、もうすぐ、私たちの会社も危なくなるんじゃないかしら。どう思う?」

会社が終わって、町田佐和子と一緒にビルを出たときに、音村に投げかけられた声は不安げな彼女の言葉であった。

「我々のお客は、ちょっとしたことで、落ち着いていられなくなる種族だからね。株価が上がっても下がっても、全身これ神経、過剰反応型人間の大集合と言いたいね。そういうお客を毎日相手にしているのだから、こちらもいい加減疲れるよ。因果な商売だ。」

「それはそうだけど、今度ばかりはちょっと違う感じ。世界大恐慌にはならないと思うけれど、国際金融の信用収縮は非常に大きいわ。」

「そんなこと、もちろん、分かっているさ。上がったり下がったり、強い波が押し寄せたり引いて行ったり、金融界というのはこういうことの連続だ。マネーゲームが極限まで行けば、こうなるのさ。もちろん、実体経済にも影響を与えるのは必至さ。行き着くところまで行かなければ、人は学ぶことができない。バブルというのは必ずあるものだ。人間が自分たちの欲望をコントロールできない限り、マネーは暴走するようになっている。経済理論も経済予測もあったものじゃない。何もかも吹っ飛んでしまう。」

「音村さん、何か人ごとのような言い方をするわね。私たちが、毎日かかわっている仕事なのよ。私たちはその渦中にあるのよ。会社がつぶれたら、困るわ。収入が途端になくなる。そして生活ができなくなる。そういうことなのよ。会社がつぶれなくても、経営がきびしくなれば、人員整理などが始まるわ。あるいは生き残るために他社との合併があったりするのよ。合併で余剰な人員の首切りも始まる。評論家のような言い方しないで。」

「全く君の言う通りだよ。異論はないさ。だが、ぼくにどうせよと言うのだ。どうすることもできないじゃないか。こんな議論はやめにして、それより、おいしいコーヒーでも飲もうじゃないか。スターバックスに入ろう、すぐそこにあるだろう。」

実際、仕事の話はうんざりであった。ただ、無限に自己を解放したかった。仕事からの解放である。スターバックスに入って、音村はキャラメルマキアートを注文した。町田佐和子はアイスコーヒーを頼んだ。

「音村さんは、仕事の疲れなどから、自分をどのように解放しているの。聞きたいわ。仕事を忘れさせてくれるような趣味を持っているでしょ。教えてよ。」

「そういうことを人に聞く時には、まず自分の趣味などを話してから聞くものだよ。町田さんの趣味をまず聞きたいな。」

「わたしの趣味は月並みだけれど、読書ってところかな。取り立ててこれという趣味はないわ。『ダ・ヴィンチ・コード』なんか、面白かったわ。北方謙三の『三国志』や『水滸伝』も夢中に読んだわね。『ハリー・ポッター』も面白かったわ。ああいうの好きよ。」

「ふーん。読書か。NHKでやっている『東京カワイイTV』のファッションなんかどうなの。ああいうのも面白いよね。」

「何言っているの。私を幾つだと思っているのよ。ああいう年ごろじゃないわ。もちろん、三十になっても四十になってもカワイイ系に憧れている人もいるけど。私はそういうタイプじゃないわ。音村さんは、ああいうカワイイ系が好きなのね。」

「言ってみただけだよ。『三国志』や『水滸伝』に夢中になるとは、君って、意外と男性ホルモンが多いんだね。そして、『ハリー・ポッター』とくれば、これはまた、ちょっと違うなあ。だいぶ現実離れしているね。魔法使いがそんなにいいかい。」

「さあ、順番として、今度は、音村さんの自己解放の趣味は何か、教えて。会社での不満や葛藤はどのように昇華されるのか、鬱積された欲求不満の解消法とはどんなものなのか、教えてちょうだいな。」

「町田さんの口のきき方って一体、何なんだ。自己解放の趣味は何か、鬱積された欲求不満の解消法とはどんなものか、そんな堅苦しい言い方はないだろう。君は大学で何を勉強したんだ。社会心理学でも専攻したの。」

「残念でした。経営学よ。一般教養でフロイトやユングは勉強したけど、そんなに面白くなかったわ。」

「おやおや、フロイトやユングが面白くないなんて。面白いと思うんだけど。さて、ぼくはおのれの心身をどうやって癒し、解放しているのか。ずばり、それは音楽だよ。音村が音楽を聴く。そして疲れた精神と肉体を治癒する。分かりやすいだろう。」

「すごく分かり易い!音村さんて、まるで音楽を聴くために生まれてきたみたいな。音楽に対して強烈な引力が働くのね。それとも音楽の方が音村さんに惹き付けられてしまうのかしら。」

「結構、言うんだね、君も。音なしく(大人しく)してほしいというのに。でも、まあ、そういうことだね。音村と音楽は不離一体なんだ。音楽の村で音村は生きている。これこそが、まさしくぼくの正体であり、アイデンティティーである、なーんちゃって。」

「だめよ。なーんちゃって、という言葉はすべてをぶち壊しにする言葉よ。発言したことのすべてが、締まらなくなってしまう。真剣に聞いていた人も、途端に、肩すかしを食らっちゃうような、いやな気分を引き起こす言葉よ。まじめに話して。」

「分かった、分かった。悪かった。まじめに音楽の話をしよう。ぼくは大抵の音楽は聴くし、好きだ。クラシック、ポップス、ジャズ、シャンソン、カンツォーネ、何でも聞く。ロックも悪くない。ラップ・ミュージックだって楽しいものさ。」

「音楽よ、何でも来い、って感じね。わたしはもっぱら、ポップスだわ。それも、Jポップ。ミスチルはいいわね。宇多田ヒカルは大好き。ほんとに彼女うまいわ。天才的だと思わない?」

「宇多田ヒカルの『キャン・ユー・キープ・ア・シークレット』じゃないけれども、ぼくの取って置きのシークレットを君に話してあげよう。ぼくは、いろんな音楽を聴くけれど、バッハはぼくにとって特別なんだ。癒されるんだ。」

「わたしは、クラシックは嫌いじゃないけれど、そんなに聴かないわ。バッハのどういうところがいいの?」

「バッハが好きだという人は、結構、多いよ。バッハマニアのなかにぼくも入る。「マタイ受難曲」と「ブランデンブルク協奏曲」に陶酔していた大学時代の小島という友達がいたし、カンタータを聴き込んでいるクリスチャンの女の子も知っている。従妹はピアノを習っていた関係で、「平均律クラヴィーア曲集」を片時も手放せなかった。いろいろあるね。」

「バッハと聞くと、クラシック音楽の元祖みたいな感じを受けちゃうけど、たくさんの曲を作ったんでしょう。」

「そうだね、大小さまざま、全部合わせると千曲は超えると思う。なかでも、ぼくは「トッカータとフーガニ短調」が気に入っている。パイプオルガンの神聖で荘厳な音色がいい。パイプオルガンというやつはすごい楽器だと思う。」

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