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魂の宇宙旅行 ~パイプオルガンに乗せて~ その3

明くる日、会社に出た音村は、気分が爽やかで、同僚たちに快活な挨拶の言葉をかけた。上司に対しても、明るい笑顔で挨拶を交わした。昨夜の宇宙旅行で、すっかり、気分がよくなっているのだ。不思議なエネルギーが充満している気分だった。

「田村部長、おはようございます。今日も一日、よろしくお願いします。」

「やあ、おはよう、音村君。今朝は、馬鹿に明るいな、君は。みんな、くたくただよ、わが社の社員は。この一連の金融危機騒ぎで、はっきり言ってパニック状態だ。」

「そうですね。でも頑張りましょう。何とかなると思います。わが社が乗り切っていかなければ、日本経済の沈没です。ここは踏ん張るしかありません。」

「おいおい、言うじゃないか。その元気はどこから出てくるんだ。まるで社長が社員に檄を飛ばしているかのような口ぶりだね。」

「はい、元気は宇宙から貰っています。宇宙エネルギーを補充しましたので、私は大いに大丈夫です。」

「何をわけの分からないことを言っているんだ。冗談言うのはよせ。さあ、今日も仕事だ。めげずに行こう!」

こういう会話のやり取りを、田村部長と交わし、デスクの前のパソコンの画面を開いたとき、町田佐和子の声がした。

「音村さん、おはよう。昨日は、面白い音楽のお話、ありがとう。いろいろと、あなたの秘められた世界が分かって、面白かったわ。」

「やあ、おはよう、佐和子さん。ぼくも楽しかったよ、君の世界が少し分かって。」

「あなたが、バッハに嵌まっているなんて全然知らなかったわ。お陰で、私も少しバッハに興味を持つようになったわ。あなたの好きな「トッカータと・・・」、何と言ったっけ、あの曲よ。ほれ、あ、そうそう、「トッカータとフーガニ短調」、それを聴いてみたいと思うの。あなたのCD、貸してくださる?」

「ああ、いいよ。明日、持ってきて上げよう。どんどん聴いてもらいたいね。そのうち、君も宇宙旅行ができるようになるよ。」

「えっ、今、何と言ったの。宇宙旅行?」

「あとで、ゆっくり話してあげよう。昼の休憩時間にね。昨日のスターバックスがいいな。」

こういう会話が、音村と町田の間に交わされ、午前中は仕事に、それぞれ励み、お昼に会うことにした。

やがて、昼の時間がやってきて、音村と町田の二人はスターバックスへ入った。音村は、ダブルチーズデニッシュと抹茶ティーラテを注文した。町田佐和子は、シナモンロールとフラペチーノを注文して、二人は端の方の席に着いた。

「朝、あなたは、ちょっと気になることを言ったわね。宇宙旅行とか何とか。どういうこと?」

「ああ、言ったよ、まさに宇宙旅行さ。実は、昨夜、ちょっとした宇宙旅行を、僕は楽しんだんだ。非常に面白かった。お陰で、君の言う「自己解放」、「鬱積された欲求不満の解消」をやってきたよ。今日は、ぼくはエネルギー充満、元気もりもりさ。」

「さっぱり分からないことを言うわね。何なのよ、一体。」

「昨夜、ぼくはカール・リヒターのパイプオルガン演奏の「トッカータとフーガニ短調」を聴いた。この曲を聴くと、僕には不思議なことが起きる。幽体離脱というかレム睡眠状態というか、とにかく、僕の魂は、宇宙へ打ち上げられ、宇宙旅行ができるのだ。君はそれを信じてくれるかどうか分からないが、これは、僕にとっては、動かしがたい事実なのだ。無重力の宇宙空間を猛スピードで飛んでいく。実に爽快だ。」

「ふーん。あなたは本当に地球人なの。まさか宇宙人じゃないわよね。」

「ぼくは、一九七七年三月八日、横浜の保土ヶ谷区に生まれた正真正銘の地球人、もっと言えば、日本人だ。宇宙人という得体の知れない要素は一切ない。」

「そのあなたが宇宙旅行を楽しんでいるってわけね。あたしにもできるかしら、その幽体離脱か何か分からない、それが。あなたって便利にできているのね。」

「佐和子さんにそれができるかどうかは分からないが、ぼくはバッハの曲を聴くとともにそうなるんだ。」

「ところで、昨夜はどこを旅行したの。」

「月だよ。地球に最も近い月だよ。近いと言っても38万キロメートルは離れているがね。」

「何もない、石ころだらけの月の表面を見て、何が楽しいの。ちっとも面白くないじゃないの。」

「それは体験してみないと分からない。広大ないくつもある月のクレーターや月の山脈、深い峡谷など、地形の様々な、おっと失礼、地形じゃなくて、月形というべきなのかな、そういうのを見て、とにかく、壮大な気分になるんだ。それは、僕の体験から実証済みだよ。」

「それで、元気になるのね。疲れた魂が癒されて。」

「そういうことなんだが、昨夜は、特に面白かった。月には人がいないと僕も思っていたのだが、昨日は、それが、いたんだよ。コペルニクス・クレーターという所があってね。僕の好きな場所なんだが、そこに行ってみたら、何と、コンサートをやっていたのさ。」

「えっ、何ですって!コンサート?どういうこと?」

「どこから集まってきたのか、それは僕も知らないけれども、有名な女流ピアニストがベートーベンを演奏し、それを聴きに500名ばかりの聴衆が集まっていたんだよ。」

「それって本当なの。人間たちがどうしているのよ。あなたは、幻覚症状か何かにおかされたんじゃないの。」

「幻覚症状も何もないよ。大体、ぼくが宇宙旅行で月へ行ったという話そのものが、幻覚症状であると言えば言えるし、あるいは、もっと、幻覚症状なんてものを超えているような話だからね。月に人がいようがいまいが、驚くことはないさ。とは言っても、僕自身、昨夜は、月で人を見たものだから、びっくりしたよ。それまでは、何回か月に行ったけれども人は見なかった。それが、昨夜はいたんだ。」

「それで、どうだったの、コンサート。」

「驚くなかれ、最高の女流ピアニストの演奏を聴いたよ。ヨウラ・ギュラーという有名なピアニストで、彼女はすでに1980年に亡くなっているんだが、その彼女が美しい姿を見せ、最高のベートーベンの演奏を聴かせてくれたんだ。もう、言葉に表せない感動を味わったよ。」

「その人のCDってあるかしら。買ってみたいわね。」

「あるとも。たくさんあるよ。女優と間違われるくらいの美しい女性さ。彼女が月で弾いていた曲は何だと思う?当ててごらん。」

「うーん、よくわからないけど、『運命』、『第九』、それとも『田園』?」

「残念、ピアノソナタ『月光』でした。月面で『月光』を聴く。どんぴしゃり、完全に、決まりだ。「月光仮面」の歌じゃないよ、『ムーンライト・ソナタ』だよ。」

「あまりにもよくできた話ね。本当なの。でも、すてきね。月で、『月光』を聴くなんて。」

「驚くなかれ、もっとあるんだ。その聴衆の中に、非常に有名な人が来ていたんだよ。誰だと思う?言ってごらんよ。」

「こちらに生きている人じゃないわね。あちらに逝った人でしょ。ええと。プレスリー、いや、プレスリーはクラシック聴くタイプじゃないわね。誰かしら。ううん、マレーネ・ディートリッヒ、グレース・ケリー、一体、だれかしら。レーガン大統領、チャーチル、ううーん、難しいわ。ヒント与えてよ、ヒントを。日本人、アメリカ人、フランス人、どこの国の人?」

「じゃあ、ヒントを一つだけ与えるよ、ドイツ人だ。」

「ドイツ人、分かったわ。ヒットラー!」

「なぜ、ヒットラーなんだ。君の感覚はちょっと変わっているね。『月光』を聴くヒットラー、それもいいけどね。しかし、独裁者ヒットラーはワーグナーのような大袈裟な作曲家が好きなんだ。」

「あっ、分かったわ。ベートーベンでしょ。きっと、ベートーベンが来たんだわ。」

「ピンポーン。正解。そうなんだ。ベートーベンが来ていたんだよ。しかも、僕のすぐ後ろの背中のところへ座っていたんだ。間違いなくベートーベンだったよ。」

「結局、あなたは、昨日、月のコペルニクス・クレーターとか言うところで、最高のコンサートに参加してきたというわけね。おめでとう。おめでとうございます。」

「何だか、皮肉っているね。全部、本当の話だよ。君を信じて話してあげたんだよ。」

「もちろん、信じてあげるわ。でも、わたしも同じような体験がどうやってできるのかしら。それを知りたいわ。」

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