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マニラ・バニラの不思議 その2

渡辺稔は、フィリピンに滞在する期間、ホセの家に宿泊させてもらった。お蔭でホテル代が助かった。ホセ・ドマゴソの妻となっている日本人女性は、その名を花鈴(かりん)と言った。しゃれた珍しい名前である。カリン・ドマゴソは美しい女性であった。和洋女子大学を卒業していた。実家は茨城県の土浦にあった。

ホセはフィリピンの名門大学、デラサール大学を卒業して、将来のビジネスのため、日本語を学びたいと考え、慶応大学に留学した。ホセが田町駅の行きつけのレストランに行ったとき、そこのレストランで働いていたのがカリンであった。注文の品を運んできたカリンを見て、一目で気に入って、声をかけたのがきっかけで、二人は付き合いを始めた。そして、結婚までこぎつけたのである。

しかし、カリンの両親は二人の結婚には賛成しなかった。ホセは習いたての日本語で、懸命にカリンの両親に二人の結婚を認めてくれるように御願いした。頑として、カリンの両親は首を縦に振らなかった。

ところが、カリンの実家の隣に住んでいる叔父が、助け舟を出してくれた。ホセは非常にいい男だ、誠実である、学問もある、フィリピン人だと言って、偏見を抱く必要は毛頭ない、結婚を認めてあげたらどうか、とカリンの父親(おじの兄)を説得してくれた。その甲斐あって、ついに両親も折れて、結婚の成立に至ったのである。

フィリピンに帰国したホセは、トヨタの販売所で働いていた。日本語のうまい彼は、販売所の責任者である伊藤勝男に非常に気に入られていた。何かと可愛がられた。実際、ホセは本当にいい奴だった。

ホセの家に世話になっている渡辺は、夕食のとき、その日のこと、つまり、SM(シュー・マート)でバニラ・アイスクリームを食べたことをカリンに話した。そして、今回のフィリピン訪問の目的もバニラ・アイスクリームを食べることにあると語った。

「へえ、渡辺さん、わざわざマニラにまで来て、バニラ・アイスクリームを食べるのが目的だなんて、ほんとに変わっているわ。そんな人、世の中には一人もいないわよ。ハーゲンダッツやサーティーワンや、そのほか、アメリカのコールド・ストーン・クリーマリーまで、一杯あるじゃないの、日本には。日本のアイスクリーム・メニューはほんとに豊富よ。フィリピンまで来て食べる必要、全くないわ。」

「いや、カリンさん、そのことを昼間、シュー・マートの店で、ホセにも懇々と話したんですが、残念ながら、理解してもらえなかったようです。ポイントは、マニラで食べるバニラ、つまり、マニラ・バニラというところにすべてがあります。東京で食べるバニラは東京バニラ、北京で食べるバニラは北京バニラ、これでは全く意味がありません。モスクワ・バニラもだめです。ロンドン・バニラ、ベルリン・バニラ、いずれもだめです。バニラと波動が合わないんです。」

「カリン、ぼくはミノルから昼間、聞いたんだが、マニラという都市が発する特別な波動がバニラと共鳴現象を引き起こし、途轍もない高級な特別な味をバニラ・アイスクリームから引き出すということらしいんだ。全く、ぼくには理解できないがね。実際、ミノルと一緒に、同じバニラ・アイスクリームを食べたんだが、どうってことなかったね。ところが、ミノルは、マニラで食べるバニラには特別なうまみがあるというんだ。それはもう、「うまい」を超えて、「まいう」だと言うんだが、そういう特別な美味しさというものをぼくは全く感じることが出来なかった。」

「もし、渡辺さんの言うことがほんとうだったら、大変なことだわ。あたしをその店に明日連れて行ってちょうだい。気になるわ。あたしも食べてみて結論を出すわ。マニラ・バニラがそんなに美味しいんだったら、まっちゃん(松本仁志でも、松平健でも想像してください)が食べる抹茶・アイスクリームも共鳴現象を引き起こして特別な味がするおいしいアイスクリームになるという論理になるわね。まっちゃん・抹茶、というのも一つの波動共鳴を起こすことになるわ。そうじゃないかしら、渡辺さん。」

「カリンさんはなかなか分かりがいいようですね。いいところを衝いています。カリンさんにはマニラ・バニラの美味しさが分かってもらえるような気がします。明日、バニラを一緒に食べてもらうのが大いに楽しみですよ。」

こうして、カリンは翌日、ホセと渡辺の三人で一緒に例の店までやってきて、バニラ・アイスクリームを食べることになった。注文したバニラを三人は食べた。例によって、ホセは特別に何も感じないといったふうに、淡々と食べたが、カリンの様子は全く違った。一口、バニラ・アイスクリームを口に入れて、注意深く味を確認するかのように舌の上のバニラが溶けていくのを感じながら、興奮して言った。

「うまい!これは絶対うまいわよ。東京で食べていたバニラと違うわ。不思議だわ。どうしてかしら。一口だけでは気のせいで錯覚かもしれないから、二口目をいただくわ。うーっ。美味しい!何なの、この味。美味しいよ。」

「僕の言った通りだ。マニラ・バニラは美味しいのさ。波動の共鳴効果が確実にバニラ・アイスクリームにあらわれている。ホセがまだこの美味しさに気付いていないのはマニラ生まれのマニラ育ちで、あまりにもその美味しい味を当然のこととして味わい育ってきてしまっているせいだと思う。美味しいというよりは、当たり前の普通の味としてしか感じられないんだ。マニラの人に食べてもらって、普通の味だとみんな答えたら、マニラの人は普通の味に感じてしまうという傾向にあることが証明される。ちょっと、この店の女の子に食べてみてもらおう。」

こう言って、渡辺はバニラをもう一つ注文して、店の若い女の子にそれをぜひ食べてくれと、差し出した。女の子は今、仕事中だから食べられないと断った。渡辺は、これはマニラの人たちがバニラ・アイスクリームをどのような味として感じるのか実験をしているのであるから協力してくれと頼み込んだ。ことの意味を理解した女の子は、一口、二口と食べた。そして、言った。

「どんな味がするかと言われても、バニラ・アイスクリームの普通の味がするとしか言えません。普通のバニラ・アイスクリームの味です。」

それを訊いた渡辺は、もう一人の女の子の店員にも食べてもらった。同じような返事が返ってきた。さらにもう一人の女の子にも食べてもらった。すると彼女は、ふるさとで食べたバニラ・アイスクリームよりもずっと美味しく感じると答えた。マニラの人ですかと訊くと、ダバオだと答えた。マニラではなかった。ミンダナオ島の南部にある都市である。

渡辺は、マニラ・バニラは意外にもマニラの人には特別、美味しいアイスクリームではなさそうだという法則を発見した。マニラに関係のない遠隔地の人々がマニラでバニラ・アイスクリームを食べるとき、それは筆舌に尽くしがたい絶品の味覚となって、「美味しい」を連発することになるのだ。マニラ・バニラの激しい音響的波動共鳴作用で引き出された美味を敏感に感じ取り、バニラの美味の極限値、極大値を舌に迎え撃つことになるのだ。

ああ、不幸なるかな、マニラの人々よ、バニラの美味に見放されたマニラの人々よ。マニラに生まれたというだけで、バニラの美味しさを一生知らずに死んでいくのだ。この上もなく悲しいことだ。これほどに美味しいマニラ・バニラの味を美味しいと感じられないなんて、いっそのこと、バニラなどこの世界にないほうがましだと、呪詛の声をあげるしかないのか。マニラ人の悲劇は、マニラ・バニラの美味しさを知覚することができないことである。マニラ人よ、マニラに生まれたことを思いっきり呪い給え。

渡辺は、今回のマニラ旅行の目的を十分に果たした。マニラ・バニラの極上の美味しさは、ほぼ、証明されたといっていい。一週間滞在したマニラでの生活は、朝、昼、晩、三度のバニラ・アイスクリームを毎日、食する日課であった。シュー・マートだけではなく、アジアン・モールなどそのほかのところでも食べた。場所に関係なく、マニラで食べるバニラは例外なく美味しかった。

一度だけ、マニラ以外で、バニラ・アイスクリームを食べるという試みを行った。ホセが自動車の顧客を訪ねると言って、モンテンルパまで行く話しを持ち出したとき、自分も一緒にモンテンルパまで連れて行ってほしいと頼んだ。渡辺は、モンテンルパでバニラ・アイスクリームを食べたらどうなるか実験したかった。予想はついていた。おそらく、そんなに美味しくないだろう。モンテンルパ・バニラでは共鳴が起こりにくいどころか、不協和音を奏でて、普通よりもやや味が落ちるかもしれないという思いがした。結果は、渡辺が考えたとおりで、完全に的中した。モンテンルパ・バニラは美味しくなかった。共鳴しようにも共鳴できないのである。

バニラにとって、マニラという土地がどれだけ重要か、決定的に重要な特別な土地であることは今や、永遠の真理であると宣言してもよいくらいである。バニラとマニラ、誰でも容易に気付くのは、「ニラ」という部分が共通にあるということだ。そのことに加えて、「マ」の音を発音してみて分かるのだが、いったん、唇を閉じたところから、「マ」の音は発せられる。同じく、いったん、唇を閉じたところから、「バ」の音も発せられるのである。この類似性は非常に大きい要因である。「ア」や「カ」や「サ」の音では、そうはいかない。唇は一度も閉じられない。唇を開けたまま、「ア」「カ」「サ」と音を出すのである。だから、例えば、サニラ・バニラではもう一歩、効果が薄いのだ。マニラ・バニラは恐ろしいほどの親和力で結びつくのである。

バニラとマニラはお互いに共鳴したくて共鳴したくてたまらないのだ。一目ぼれもいいところである。熱烈な大恋愛が破綻を迎えることなく、その熱々ぶりでずっと一緒に行く、永遠に一緒に行くという位の相性のよさである。マキシマムの相性である。



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