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画家の魂 その2

浅井忠 「春畝」

ミレーの落穂拾いは農家の女性三人が腰を曲げて落穂を拾う姿を描いた作品であるが、ミレーの日本版を描いたのが浅井忠かもしれない。

浅井忠の「春畝(しゅんぽ)」という作品が、それに当たる。農夫の家族五人が農作業をしている灰褐色基調の画である。

この画の中に描かれた五人は間違いなく家族であろうが、一家総出で農作業に精を出す明治、大正時代の日本の農村風景からすれば、祖父母、父母、子どもの五人であるかもしれない。

土を盛り上げて、畝(うね)をしっかりと作る仕事は力が要る。それを黙々とやっている。畝には麦が植わっている。うっすらとした曇り日和の日の農作業であるが、「春畝」という題からして、季節は春で、梅の花が白く咲いていることからも分かる。

畑の後ろには麦藁屋根の家が並んでいる。家の庭先の前に広がる畑での作業である。この絵をじっと見ていると、土の香りが漂ってくる。春先の畑が湿り気を含んでいることも伝わってくる。

この「春畝」は、国立博物館に所蔵してあり、1888年(明治21年)の作であるから、明らかに明治期の農村の姿である。重厚な自然主義の画風を浅井忠はこの作品の中に残してくれた。

家族の風景というと、日本の伝統的な昔の社会に遡れば、それはしばしば農村の家族に逢着する。しかし、農村の風景が描かれることがあっても、農村の家族を捕らえた作品は意外と少ない。浅井の「春畝」はその希少な作品である。

大地に向き合い、黙々と働く農家の人々、朝早くから夕刻まで汗水を流すその姿は、大半の日本人の原風景である。日本社会を底辺で支えてきた人々である。

そういうことを思いながら、「春畝」を鑑賞すると、素直に、農家の人々に感謝したくなる。女性であれば、農家に嫁ぐということは、そのまま、農作業の日々の重労働を甘受するという意味であった。同居する祖父母に仕えるという意味でもある。

機械化の少ない明治・大正期にあっては、農業はすなわち体力勝負の仕事であった。機械化の現在とは言え、今でも、幾分かは体力の仕事であるかもしれない。


浅井忠(1856-1907)は佐倉藩士、浅井常明の長男である。7歳から16歳まで藩校の成徳書院で学んだ。

佐倉藩に黒沼槐山という画家がいるが、そのもとで花鳥画を学び、画才を発揮した。13歳の頃である。

17歳の時に上京して、19歳の時から国沢新九郎に油絵を学んだ。20歳の時に、お雇い外国人として明治政府から招かれていたイタリア人画家アントニオ・フォンタネージ(1818-1882)の薫陶を受け、洋画家としての地歩を築き上げていく。

1900年、44歳の時にはフランスへ洋画の一層の研鑽を目指し、留学している。浅井は画家であると同時に、教育者としても優れていたので、東京美術学校(東京芸術大学)や京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学)の教授も務めている。

また、自ら聖護院洋画研究所(関西美術院)を開校、多くの優れた後進を排出した。安井曽太郎、梅原龍三郎、津田清楓、向井寛三郎などの画家を輩出した功績は大きい。

明治時代の欧化政策の中に西洋画があったことは確かであるが、浅井忠にとって、フォンタネージという師を得たことは幸いであった。

フランスのバルビゾン派の自然主義と、フランスからイタリアへと広がっていた印象主義の画風、この二つの洋画技法をフォンタネージは伝授し、それを見事に浅井は習得して、明治の新生日本に洋画の潮流を作り上げたのである。

画壇のみならず、文壇、その他で、すべて伝統文化と欧米文化の衝突、或いは融合など、東と西の双方の文明文化が劇的な出会いを遂げ、人々を興奮の渦へと導いていた、それが明治という時代であった。


画には色々なジャンルがあり、また、画題もさまざまであるが、家族の肖像、家庭の光景を見出すことは、それほど容易ではない。

浅井の「春畝」は家族が働いている姿であり、五人の顔が正面を向いているわけではなく、五人の表情もはっきりしない。それにもかかわらず、労働の息遣いがはっきりと伝わってくる。

大地に生きることを運命付けられた農夫の魂が、春先の畑の湿った土、そしてそこに植わっている麦と人知れず対話しているのが分かる。不思議な力が一幅の画にある。

絵画というのはそういうものであろう。ある時、ある場所の一瞬を切り取るが、その一瞬に永遠を表現する。

ある場所という限定のように見えるが、どこにでもありそうな普遍を表出する。静止しているように見えて、動きが感じられる。

浅井の画は、とりわけ、そういう特徴を備えていると言ってよいだろう。

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