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イタリアの女流画家


イタリアのルネッサンス期の女流画家、ソフォニスバ・アングイッソラ(1532-1625)が描いた「チェス・ゲーム」(1555年、23歳のときの作)という作品がある。彩色が鮮やかで、描かれた4人の女性たちの表情は明るく、全く暗さがない。 

右側の女の子が手を挙げている所を見ると、勝負あったと見えるが、もちろん、左の年長の女性が勝利を収めた瞬間であろう。チェス・ゲームで対戦した二人の女性の間に挟まっている小さな女の子は、「やっぱり、お姉ちゃんが勝ったね。」と言っているようだ。

右端からゲームの成り行きを見守っていたのは、この家のメイドである。女4人を画布に描いた「チェス・ゲーム」は、若きソフォニスバの才能が遺憾なく発揮された名作として記憶されることとなった。

ソフォニスバは、ジェノヴァの貴族の家に生まれた。父は、アミルカーレ・アングイッソラ、母は、やはり貴族の家系から出たビアンカ・ポンツォーネである。父は、娘たちに技芸を教え込むことに熱心であったが、娘たちは皆、絵を描く才能を磨いたのである。

ソフォニスバは長女であり、「チェス・ゲーム」に描かれた左側の女性は、3女のルチア、右の妹が4女のエウロパ、一番小さな女の子が5女のミネルヴァである。アングイッソラ家には6人の娘と1人の息子が生まれ、女の子たちの賑やかさが家庭内に広がっていたことであろうと思われる。

それにしても、「チェス・ゲーム」に描かれた一人一人の人物の表情としぐさは、その場のその時の状況をよく物語っていて、説明の言葉を要しない。この才能こそが、ソフォニスバの才能であり、人物の表情の意味を的確に描き出している。

ソフォニスバ・アングイッソラは、女流画家として、その名を著名にしたが、ヨーロッパの絵画史を見ても分かるように、ほとんどが男性であり、女性の名はほとんど見当たらない。現代に至り、ちらほらと女性画家が見られるようになったのであり、ルネッサンス時代には極めて珍しいことであった。

ソフォニスバが生きた時代は、ダヴィンチもラファエルもすでに亡くなっており、ミケランジェロが活躍していたときであった。当時の画家の世界は、ほとんどが世襲であり、そういう中から、有名な画家の子息や子弟が活躍していく時代であった。

アングイッソラ家では、父親が娘たちの教育に高い意識を持っており、さまざまな習い事、例えば、音楽、ラテン語、絵画などを習わせる姿勢があり、娘たちはそのようにして教養溢れる女性として成長していったのである。

父親のアミルカーレは、娘たちに画家の才能があると分かると、ベルナルディーノ・カンピのような有名画家のところに娘たちを送って、修行をさせている。ソフォニスバは、1554年(22歳)、ローマ滞在中、ミケランジェロに会い、助手の仕事を得るが、その才能と仕事ぶりを大いに評価された。ソフォニスバは、偉大な師匠から個人的に教わる恩恵に浴し、ますます才能に磨きをかけていくのである。

ソフォニスバの名声は世に知られるところとなり、1558年、スペインの宮廷に招かれた。フェリペ2世の王宮で過ごすこと18年、王妃に女官として仕えながら、王妃の肖像画などを描いて、彼女の才能に感嘆した王と王妃から絶大な寵愛を受けた。

ソフォニスバは独身であったので、フェリペ2世は彼女のことを心配し、結婚を薦めた。見合いをして、1571年頃、パテルノ(イタリアのポテンツァ圏にある自治体)の公子でシチリア総督のフランシスコ・デ・モンカーダと結婚した。結婚式は華やかな祝賀であった。彼女はスペイン王から持参金を持たされた。

ソフォニスバと夫は、1578年頃、スペインを後にしてパレルノへ行き、そこで夫は1579年になくなっている。フランシスコとの結婚生活は8年間の短いものであった。1580年、48歳のとき、若いオラツイオ・ロメッリーノと出会い、ピサで結婚する。

オラツイオは、妻の芸術を理解し、援助した。1625年、ソフォニスバは93歳で死ぬが、夫のオラツイオは墓碑に「わが妻ソフォニスバ、あなたはこの世で、肖像画を描く傑出した輝かしい女性として記録された」と刻み、彼女の功績を称えた。オラツイオはソフォニスバを愛し、彼女は老いてなお画業に励み、幸せな人生を閉じたのである。

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