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魂の宇宙旅行 ~パイプオルガンに乗せて~ その5【最終回】

次の日、会社に行った音村は、町田佐和子に、約束のCDであるバッハの「トッカータとフーガニ短調」を渡した。そしてまた、昼の時間、スターバックスに入り、二人はおしゃべりを楽しんだが、音村は、昨夜の火星旅行のことを黙っていることができなかった。

「ねえ、町田さん。もう一つ、びっくりするような話をしてあげようか。」

「何よ。また月に行ったの。」

「そうじゃない。昨夜は火星へ行ってきたんだ。」

「火星ですって。驚きたいところだけど、もう驚かないわ。音村さんの宇宙の話、嫌いじゃないわよ。話して。火星ってどんなところなの。火星人がいるの。」

「火星に何度か行っているけれど、火星人というものに出会ったことはない。ぼくが火星に行く目的は、太陽系の中で最も高い山が火星にあるからだよ。そこの頂上に腰を下ろして瞑想するんだ。」

「そんなに高い山が火星にあるの。」

「地球で最も高い山はエベレスト山だ。その三倍の高さの山が火星にあるのだよ。驚きだろう。」

「じゃあ、火星という星は、物凄く大きな星なのね。そんなに大きな山があるのだったら。」

「いや、地球よりも小さな星さ。火星の直径は地球の直系の半分しかない。その火星にエベレスト山の三倍もの高さの山が聳えているんだよ。名前はオリンポス山と言うんだ。」

「ギリシア神話みたいね。エベレスト山の三倍の高さって、2万4千メートルくらいなの。」

「2万7千メートルだよ。そこに行きたくて、今まで13回も火星に行ったんだ。今回で14回目になるけどね。月と同じく、今回、火星で人間に会ってきたよ。オリンポス山頂でね。月で会った人たちとは、だいぶ趣の違う人さ。当ててごらんよ。」

「うーん、何もヒントがなかったら難しいわ。ヒントちょうだい。」

「東洋人だ。」

「月で会った芸術家たちとは違う人種と言ったら、政治家かしら。それとも、学者かしら。徳川家康、菅原道真、一体誰なの。日本人、中国人、韓国人?」

「中国人だ、昔のね。」

「昔の中国人。昔にどんな中国人がいたかしら。劉邦、項羽、諸葛孔明。」

「もっと精神的な人だ。」

「えっ、精神的な人。人間は誰であれ、多かれ少なかれ精神的よ。宗教家なの。」

「うーん、まあ、そう言っても構わないかな。」

「孔子さま?」

「違う。孔子じゃない。」

「孔子さまじゃなくて、宗教家のような人。思いつかないわね。朱子かしら。孫子という人もいたけど、あの人は兵法家よね。」

「老子さまだよ。老子に会ったんだ。」

「あたし、老子さまのこと、あまりよく知らないわ。どんな人なの。」

「そうだな。『上善は水の如し』と言って、水のような生き方を最高の生き方として説いた人だよ。」

「水のような生き方って、どんな生き方なのかしら。みずみずしい新鮮な生き方かしら。」

「水は、入れる器に従って自由に形を変える。丸い器には丸く収まり、四角い器には四角く収まる。つまらないこだわりを持たず、自由に生きるのさ。権力、お金、名誉、地位、そんなものは老子さまの生き方には全然関係ない。水は高いところから低いところへ流れ、しかも、低い所へいるからと言って、文句も言わず、謙虚なものさ。それでいて、水がなければ、万物は育たない。万物をはぐくみ育てながら、自らは誇ることもない。これが水の生き方だ。こんなことを老子さまから直接教わったんだよ。どう思う。」

「大いに役立っているのに誇ることをしない。謙虚な生き方ね。少しくらいは自分のことを誇りたいものよ。人によっては、自慢したくて自慢したくて堪らない人もいるわ。なかなか水のようにはいかないわね。見栄や虚栄心で生きる人、誇りやうぬぼれでいっぱいの人、権勢を振るいたがる人、威勢を張る人、そんな人で私たちの社会はいっぱいよ。」

「そして人間同士が、角を突き合わせてぶつかり、争うのだ。悲しいな、そういう社会は。僕は、老子の精神をとうとく思うよ。尊い生き方だと思う。水のように生きれば世界はもっと平和になると思う。そう思わないかい。」

「音村さんは、火星ですごく深い生き方を学んできたのね。火の星で水の生き方を学ぶ。意味深長ね。あたしは、4月17日生まれで、牡羊座なの。牡羊座を支配しているのは火星よ。あなたの水のような生き方を火のわたしが加勢してあげるわ。」

「佐和子さん、結構、言葉の遊びが好きなんだね。是非、僕の生き方を加勢してよ。水の生き方というのはなかなか難しくて一気呵成にいかないからねえ。」

「あなたを助ける方法はいくつかあるわ。一つは、あなたの妻となってあなたを助ける。もう一つは、大いに出世したあなたの家の家政婦となって火星で学んだあなたの水の生き方を助ける。もちろん、苛性ソーダを含んだ石鹸であなたの汗ばんだ服を洗ってあげるわ。どっちがいい、妻それとも家政婦?」

「何だって。言葉遊びにまぎれて、だいぶ、悪乗りしてきたじゃないの。本気かい、冗談かい。」

「あたしは、冗談は嫌いなの。あたしの言葉はすべて本気、すべて本音、そういうことよ。」

「ふーむ、参ったなあ。そう来たか。火星を背負った4月生まれの女はストレートだなあ。160キロの剛速球を投げ込んできたね。キャッチャーの僕としても受け止め切れないくらいの球だよ。7月生まれの蟹が泡を吹いているよ。」

「受け止めてよ。あたしの球を受けこぼしたら、キャッチャー失格よ。」

「わかった。じゃあ、言おう。妻として僕の生き方を加勢してくれ。」

「ありがとう。サンキュー。ダンケシェーン。メルシー。カムサハムニダ。嬉しすぎて、世界のすべての言語で感謝しても感謝しきれないわ。」


3ヶ月後、音村翔一と町田佐和子は結婚式を挙げた。妻となった佐和子は、夫とともに宇宙旅行を楽しむことができるようになった。夕食を済ませ、二人は「トッカータとフーガニ短調」をコンポにセットした。二人の魂は、宇宙旅行へと旅立った。今夜は、どこへ行ったのだろうか。ケンタウルス座アルファ星かもしれない。

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