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新渡戸稲造:自由の真髄(1)


<内部の矩と外部の矩(内面の法と政治の法律)>

新渡戸稲造(1862-1933)は、明治期のクリスチャンで、昭和の初期まで、社会の一線で活躍した国際人である。

国際連盟の事務次長を務めたり、東京女子大学の初代学長を務めたり、国内外で活躍し、政治面、外交面、教育面のそれぞれで実績を挙げた。多くの著作があるが、流麗な英文で書かれた『武士道』は多くの人々に読まれ、現在でも人気のある本である。

論語にある「己の欲するところに従えども矩(のり)を踰(こ)えず」の一句こそ実に自由の定義を能く述べて尽したものであると新渡戸稲造は『実業の日本』(1919年3月1日)に書いたが、その記事のタイトルは「自由の真髄」というものであった。

矩(のり)とは何か。これには内部と外部との二つがあると述べた。外部の矩とは外部より来る要求、圧迫、強制等で、風俗習慣も一国の法律もその類であるが、外部の矩(政治的な法律)に自分が心から心服して何の不平もなく甘んじてそれに従うのであれば、一見外部の矩のようであるが、自己の意志の欲するところに合致する以上は、外部の矩とは言い難く、己の欲するところであって、その間に内外の区別を設けることは難しい。

法律を破れば制裁は外(司法機関)より来る。議会で決した法律の制定に特別委員となって働いた議員ですら、この法律の規定に反すれば制裁を遁れることは出来ない。警察なりその他外部の力によって罪せられる。この意味において法律はやはり外部の矩である。

習慣もまた同じである。風俗習慣に反したからと言って、一々罰せられる訳ではないが、奇抜な服装で街を闊歩する、すると、征服という風俗を破って真赤な服で登校しても、これを罰することはできない。

しかし世間の人は彼を笑って狂人と見做すであろう。友人は彼と共に歩くことを嫌うであろう。恐らく先生方も彼を遠ざけるであろう。

そうして見ると、法律の矩は踰(こ)えないにしても、世間一般で善良なる風俗と見做している矩を破れば、その罰として世間から排斥されることになる。こういう風に外部の矩を踰(こ)えると自ら外部の罰を受ける結果になる。

たとえ心の中でよしとしないことでも、悉く感服したことでなくとも、大概のことなら外部の矩を遵奉し、社会や国家と調和していって、そこで始めて世の排斥も侮辱も圧迫も受けないで、外部の矩に譲歩した結果、その代償としてのいわゆる「自由」を享受することができるのである。

それならば法律と風俗習慣とを守ってさえいれば自由であるかというと、それはやはり外部の自由(法律違反しないことから来る自由)だけであって、心の底までその人が自由であるかどうかは分からない。

言い換えれば、国の法律なり風俗なりに対して全く服従出来ないことがあったなら、即ち心に服従することを欲しないことがあるにもかかわらず、表向きだけ唯々諾々として法律を遵奉するのは自分を欺くというものであって、内部の矩(本心、良心)に逆らっていると言えるのではなかろうか。

<内部の矩とは何か>

人は各自、心に思うところがある。世の中で何の名もなく位もない、いわゆる田夫野人であっても、その思うところ欲するところは王侯貴族に劣らぬものが沢山ある。各自には冒すべからざる所信または思想がある。その深い所を「良心」といい、陽明学者のいう「良知」、人の人たる「本心」、孟子のいう「是非の心」、自分の「心の中の何者か」が存在している。
 
有名な英国の文士、H.G.ウェルズ氏が、一書を著して世間を騒がしたが、この人はあらゆる方面の智識を味わった人で、文士とはいいながら学術的素養が甚だ深い。

しかるに彼は無宗教論で有名であったが、最近、始めて神に関する一書を出して基督教を激しく罵倒し、基督教の教える神は論理上、承認し難いと言った。
 
そうして自分の信ずる神、寧ろ自分の発見した神は各自の心に存在し、各自と生命を共にし、生れる時に備わって来て、恐らく自分が死ねば、共に消えるものであろう。

しかしそれはいわゆる自我とは異なり、独立なる存在で、ただ我が体内に宿っている。そして我を警(いまし)め、我を守り、我を誤らせるものがある時には、必ずこれを警戒する、もし彼に背けば、彼は大いに我を責め、苦しめるものなりと説いている。
 
昔、陽明学者の歌に、
 
皆人(みなひと)の詣(まゐ)る社(やしろ)に神はなし
こころの中に神ぞまします
 
と教えたその神に最も類似したものらしい。
 
無神論、有神論の云々を言うつもりはないが、人には誰彼の区別なく、無神論者ウェルズさえも認めるような心の中の何者かが各自に宿っていることは、新渡戸稲造もまた堅く信ずる所であった。
 
そこでこの何者かが、或いは勧め、或いは命じ、或いは禁ずるのであるが、これを、新渡戸は「内部の矩」と呼んだ。

人はそれに背こうとしても背くことができない、強いて背けば、終生、心に不安を感ずる、この内部の矩を制定するのは、或いは「神」と言うのか、昔のソクラテスの呼んだ「デイモン」と言うのか、旧約聖書にある「声(voice)」と言うのか、名前は人によって異なるにしても、ともかく自己以上の偉大なる威権を有するものがあることだけは何人も認めるところであろうと新渡戸は結論する。
 
何人も認めながらも、その声に何時も服従する者は甚だ少ない。要するに、この声を能く守る者は善良なる人、悉くこれに従えば聖人君子という者である。

孔子が七十歳に至って始めて矩を踰えない域に達したのは外部の矩よりも寧(むし)ろ、この「内部の矩」を意味したのではなかろうか。このように、孔子の言う「矩(のり)を新渡戸は推測した。
 
孔子は若い時には随分他人の排斥を受けたようであり、他人の反感を買ったこともあったであろうけれども、彼は大して風俗習慣を破ってはいなかった。そういう噂は聞いたことがない。もし彼が外部の矩に背いたことあったとすれば、下劣な与論に背いた事ぐらいのことであろう。
 
大体に於いて、若い時から外部の矩を能く守った人と思われるにもかかわらず、七十にして始めて矩を踰えないところに達したと断言するのを見れば、この矩は必ず内部の矩であると思われる。もしそうであるならば、孔子はその欲することが悉く良心の命ずる所と一致したわけである。
 
これをひっくり返して言えば、良心の命ずる所は、一つとして本心の欲しない所はないということである。心の欲望と本心の命令とが合致したのである。やや極端に聞えようとも、孔子は、人と神と合致した所に達したのではないか。ウエルズの言う、いわゆる神の意味において、合致したと見てよいだろう。これが新渡戸の「孔子、矩を踰(こ)えず」の解釈であった。
 

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