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シェイクスピア参上にて候・第三章(ニ)


第三章 英国とインドをシェイクスピアが繋ぐ

 
(二)インドの地を踏む
 
わたくしは事務方という責任を貰いましたので、こまごまとした準備はすべてわたくしがすることになりました。

ロンドンのヒースロー空港からインドのデリー空港(インディラ・ガンディー国際空港)への三人のチケットを購入しましたが、エア・インディアが他の航空会社よりも安かったので、エア・インディアのものを購入しました。

ロンドンを午前九時四十五分に立ち、デリーに二十二時五十分に到着するという便でした。時刻上の引き算を単純にしてしまえば、十三時間ということになりますが、実際の所要時間は八時間三十五分となります。

西から東へ飛ぶということは、時差で見た場合、イギリスよりもインドの方が、時間が早く進んでいるために、すなわち、太陽からどんどん遠ざかる方へと飛行するために、夜遅く、実際よりも、長い時間がかかったような形で、到着することになります。

デリーの空港に出迎えに出てくれていたのは、わが社のインド支社の一人である有島潤一郎さんでした。わたくしが予約していたホテルへ案内してくれるという役割でしたが、そのほかにも、彼が知っているインドに関する知識と情報をたっぷり聞かせてくれることになっていました。

インド支社の滞在がすでに十三年になるという、いわば、こよなくインドを愛する商社マンに変貌を遂げていた有島さんでした。色も浅黒くなって、まるでインド人のようでした。SUV軽自動車のハスラーで出迎えてくれた有島さんに、わたくしは質問しました。

「スズキの車ですね。インドはスズキが強いという話は聞きますが、やはりそうですか。」

「強いなんてものではない。インドの販売台数シェアの四十%から五十%までがスズキです。他の車を寄せ付けません。インドはスズキ王国です。」

わたくしは助手席に座り、ベアトリスとラジャンは後部座席に座りました。外は雨が降っていました。有島さんは「レッド・フォックス・ホテル」へ向かって、車を走らせています。

わたくしがこのホテルを予約したのは、空港に近いというそれだけの理由でした。到着時間が遅かったので、できるだけ空港に近いホテルという判断によるものでした。ベアトリスが後部座席から有島さんに声をかけました。

「アリシマさん、さっき、あなたが空港の中で面白いものを見せようと言って、案内してくれた搭乗手続きカウンターの所には、お釈迦様の大きな手かしら、それともヒンズー教の教えを表す手の形かしら、いろいろな手が壁から幾つも突き出していました。そして壁一面に銅鑼のような丸いものがぎっしりと掛かっていました。あれは現代インド美術の作品なのでしょうか。」

「面白いですね。私も詳しいことは分かりません。インド的な雰囲気でお客を歓迎しようということかもしれません。二〇一〇年に新しい空港として生まれ変わった空港で、それまでは「パーラム国際航空」と呼んでいましたが、現在は「インディラ・ガンディー国際空港」と言います。

以前の空港とは大きく様変わりしました。ちょうど、今、九月ですから雨季に当たり、あいにく、雨の多い毎日です。気温も高く、雨が多いので、皆さんも快適とは言えない時期にインドにいらっしゃったわけです。

でも、七月や八月に比べれば、雨量もだんだん減ってきていますし、気温も下がってきています。と言っても、日中は三十度を超える日が続いていますが、四月、五月ごろは四十度近い気温が毎日続くのですから、それに比べればまだ増しでしょう。」

さすがにインド滞在が長いだけあって、こまかく雨量や気温のことなど説明してくれる有島さんでしたが、次のラジャンの質問には答えに窮しました。

「アリシマさん、本当にありがとうございます。私の出身は北西部のラジャスタン州です。パキスタンと接しているところです。州都はジャイプルですが、そこに私の両親と兄が住んでいます。兄は結婚して男の子一人と女の子二人がいます。両親は二人とも健在です。

このスズキの車で、あなたが私を故郷のジャイプルまで連れて行ってくれたら、本当に助かりますが、お願いしてもいいですか。」

「ラジャスタン州ですか。デリーから遠いですね。北部インドのデリーからは、南西に向かう感じになりますね。もちろん、インドは広いですから、もっと遠いところもたくさんありますが、ジャイプルでしたら、まだ少し近い方かもしれません。おそらく、距離にして、三〇〇キロメートルはいかないと思いますが、二五〇キロメートル以上はあると思います。

今、やるべき仕事が幾つかあって、その中には急いでやらなければならない仕事もあります。デリーからですと一日仕事になりますね。東京から名古屋の手前あたりまで行く計算かな、あるいは、東京から福島あたりまで行く計算でしょうか。」

独り言のように、そう言いながら、有島さんは考え込んでいました。

「分かりました。お送り致しましょう。何とか仕事の方は片付けます。明日は、いろいろな打ち合わせになりますから、今夜はゆっくりお休みいただいて、送るのは明後日になりますが、いいですか。」

「いいですとも。全く構いません。本当に感謝します。両親と兄の家族に会うのが楽しみです。お土産も一杯買ってきました。ジャイプルの街も懐かしく感じるだろうなあ。何しろ七年ぶりだからなあ。」

そんなことを車中でいろいろと話し合っているうちに、すぐにホテルに着きました。なるほど、名前の通りのホテルです。

赤い椅子、赤いソファ、白い壁に赤い色彩のアクセントを置いたそれぞれの空間の作り、そして、部屋に入ると赤いカーテン、レストランに入ると蛍光灯の傘がすべて真っ赤、全体的に白を主要な色調としながらも、赤のアクセントがホテルの空間全体を支配している、そんなホテルに到着しました。まさに「レッド・フォックス・ホテル」です。

チェックインの手続きを済ませ、その日は、各人の部屋で十分な睡眠を取って、旅の疲れを癒すことにしました。翌朝の九時にホテルのレストランで集合する約束をして、それぞれが眠りに就きました。

わたくしは、部屋に入って、すぐパソコンを開き、インドの原子力発電所の建設に関するデータを検索しました。インターネットの使用は有料でしたが、ホテルに二十四時間の接続を頼みました。

レストランで朝食を済ませた後の打ち合わせで、ラジャンとベアトリスに基礎的情報として資するデータを示すつもりでした。いろいろなデータが山ほど出てきましたが、最小限度、必要と思われるデータをブックマークして保存しました。

また、鶴矢先輩に、無事インドに到着した旨、メールを送り、有島さんの出迎えには本当に助かったことを書き加えておきました。このようなことで時間を過ごして、ベッドに入ったのは、かれこれ午前四時近くになっていたと思います。

朝、九時にレストランに集まった四人でしたが、有島さんが突然、ここでの食事は止めましょうと言い出し、私たち、ロンドンから来た三人は面食らいました。

「折角、皆さん、インドへ来られたわけですから、楽しい思い出を作るべきだと思います。美味しい所へご案内致したいと思います。デリーにもいろいろ食事の美味しいところはあるのですが、ニューデリーの方へ移動したいと思います。私の働く支社はニューデリーの方ですが、今すぐ、チェックアウトして、ここを出発しましょう。」

デリーを知らない私たち三人は、何も言うことができず、言われるまま、荷物を部屋から取り出し、チェックアウトすることにしました。

デリーよりも南の方にあるニューデリーの方へ向かって二十分ぐらい走ったと思われるところに有島さんの自宅兼事務所がありました。わが社のインド支社は有島さん宅から五分の所にあるということでした。

有島さん宅に一旦、荷物を置いて、有島さんが車で向かったところは「モティ・マハール・デラックス」という美味の大殿堂でした。有島さんの心遣いは秀抜でした。とても立派なレストランです。

三人を自腹で接待しようという有島さんのホスピタリティには感謝の言葉以外にありませんでした。お陰で、いろいろなトラブルに巻き込まれたり、不愉快な思いをして、旅の楽しみが半減したり、もう二度と来るものかなどといった気持ちを抱かせるような経験を出来るだけしないで済むように計らってくれている有島さんの思いやりに三人とも大感動でした。

色取り取りの御馳走が揃っていました。インドですからカレーはもちろんのこと、そのほかのメニューも盛りだくさんであり、味もよく、有島さんが一押しで案内してくれただけのことはあると思いました。有島さんが勧めてくれたタンドリーチキンは揃って三人とも注文しました。

食事を平らげた後、三人はすっかりご機嫌になりました。どうやら、楽しいインド滞在の一か月間を過ごせそうです。

食事後、私たちは有島さん宅に戻りました。こぎれいな美しい外観を持つ家です。奥様と、一人の娘さんと一人の息子さんも、家族全員をインドに呼びよせて、一家でインド暮らしをしている有島家庭です。

あいにく、お子さんの二人は、日本の祖父母のところを訪ねているということでした。明るい応接室に案内され、奥様が入れてくれたコーヒーが運ばれました。品のよい奥様であり、東京生まれの東京育ちで、東京女子大学を卒業されたということです。

いよいよ、インド滞在での役割遂行のための打ち合わせの時間を持つことになりましたが、有島家の落ち着いた静かな空間がそのために提供されたことは非常に喜ばしいことでありました。

昨晩、ホテルで検索した必要なデータを、有島さん宅のデスクパソコンと接続されているプリンターでプリントアウトしてベアトリスとラジャンに手渡しました。一応の説明をわたくしは彼ら二人にすることにして、有島さんは自分の所用のため出かけていきました。

「まず、インドでは、大まかに言いますと、エネルギー供給の殆どを、石炭、石油、天然ガスに依存しているというのが現状であり、石炭の比重が非常に大きいのですが、この三つだけでおよそ八十%のエネルギー供給量となります。その中で、原子力エネルギーの比率はわずかニ~三%にしかすぎません。

国連による人口推計では、二〇五〇年には、インドが一六億二〇〇〇万人で世界一の人口大国となります。中国は、二〇五〇年には一三億八〇〇〇万人で、インドに抜かれています。

こういう未来推測は何を意味するのかと言えば、インドのエネルギー消費量が爆発的に伸びていくだろうという状況にあるということです。国民に対するエネルギーの供給というテーマが、インドでは深刻な課題になってきているのです。

そこで、当然、原子力エネルギーの供給量をいかに増やすかが大きな検討のテーマとして浮かび上がるわけですが、お手元に配りましたインド原子力発電公社のデータで現状を見ますと、運転中の原子力発電所は二十二あります。建設中が六つ、計画中が四つという状況です。

そこに各国の係わりが出てきます。建設中とか計画中とかのプロジェクトに、ロシアやアメリカ、フランス、カナダ、あるいはカザフスタン、そして日本も含めて受注合戦が展開される状況が生まれているのです。」

ここで、ラジャンがびっくりしたように声を上げました。それは配られた資料に、彼が目を注いで示した反応によるものでした。

「チカマツさん、この資料を見ると、私の故郷のラジャスタンがすごいことになっていますね。運転中のものが六つもあります。建設中が二つです。運転中はタラプールに四つ、カイガに四つ、やはり、ラジャスタンの方が多い。インドの中でも原発先進地域と言ってよいところですね。」

「いろいろ調べてみると、インドの核開発、核実験など、一連の原子力行政の出発点がラジャンの故郷であるラジャスタンにありました。ラジャスタン州にあるタール砂漠が核実験の場所として選ばれたのが、その始まりです。」

「知っています。タール砂漠で行われた核実験は、私も知っています。1998年のことだったと思います。このインドの実験に反発し、対抗して、パキスタンも核実験を行ないました。

わたしが、ラジャスタン・テクニカル・ユニヴァーシティを卒業した年でしたから、はっきり覚えています。そのあと、日本へ渡って、東京工業大学で学び、日本に十年間も滞在することになりました。」

「そして、三丸菱友商事に就職されて現在に至っているということですね、ラジャン・カマラさん。さて、インドの原子力発電所は、ほとんどがインド国産のものですが、米国社製のもの、カナダ社製のもの、ロシア社製のものがあり、また計画中のものにはフランス社製のものも含まれています。

すなわち、インドの原発建設に今後、原発先進国の各社が猛烈な受注合戦を繰り広げることが予想されます。当然、原発先進国は国策としてインド政府へ売り込みを図ってくることでしょう。計画中の六つに関して言えば、ゴラクプールの二つがインド国産で進めることになっており、ジャイプルの二つはフランス社製のものでいくことが決まっています。クダンクラムの二つはロシア社製で進められます。」

「チカマツさん、今後の見通しとして、インドはどのくらい原子力発電依存の比重を高めるつもりでいるのでしょうか。現在は二~三%に過ぎないということですが。」

ベアトリスが非常に適切なポイントをついた質問を投げかけました。

「将来のことですから、はっきり言い切れるというわけにはいきませんが、おそらく、二〇三〇年代には二桁台の%に乗せたい計画であり、二〇五〇年にはインドのエネルギー供給量の三〇%を原子力でまかないたいという意向のようです。

ですから、現在の十倍から十五倍の原子力発電所を製造するというような勢いになると思います。すなわち、二百基から三百基の炉がフル回転するイメージでしょうか。各国が目を光らせているのもうなずけます。」

「チカマツさん、結局、私の国インドは将来、人口大国、エネルギー消費大国となり、そのために備えるべき政策の一つが、原発の建設という不可避的な課題であるということですね。

そして、東日本の大地震と津波による福島原発の大きな被災という点を生かすとすれば、原発の安全性への対策も同時に進めていく必要があるということになりますね。」

ラジャンは、他人ごとではなく、自分の国の原発建設に関して、非常に、慎重な見方を示しました。実際、ジャイプルでのフランスによる原発建設計画には地元住民の反対の声が上がっており、簡単に着手できない現実があることも報道されています。

「ラジャンの言うことは全くその通りだと思いますが、それでも原発に依存せざるを得ないと判断するインド政府の立場を、わたくしはどうこう言うことができません。

そして、今回の東京本社からの調査依頼の狙いは、日本もまた福島での手痛い経験はありましたが、インドの原発建設に協力したいという意向から出たものであるということです。日本政府と日本の西芝その他の原発関連会社の姿勢を、わたくしがコメントすることでもありません。

インドの原発建設計画に関して表に出ている情報のほかに、どういう動きがあるのか、インド政府の動き、または、原発先進国の動きなど、探ってほしいという本社からの情報収集の要望です。ですから、インド政府関係、特に、原子力関係の高官に接触して、外には出ていない情報を得られるならば、それがベストです。」

「チカマツさん、それは、ヒューマン・インテリジェンス、いわゆる、ヒューミントと呼ばれる情報収集の活動のことですね。先進国であれば、どこの国でもやっていますね。」

そういう分かり切った基本的な解説を入れてきたのが、ベアトリスでしたが、彼女は、どことなく、彼女自身、そういう活動をインドでどのようにできるのかしらといった不安げな表情をしていました。

「そうです。ヒューミントです。ラジャンは、その点、大きな可能性をもって祖国のインドに派遣されたといってよいでしょう。ベアトリスも四代前の先祖がインドで働いた実績から、何か面白い展開が待っているのかもしれません。今、わたくしはそれだけのことしか皆さんに申し上げられません。」

資料自体は参考のために、二十枚余りを与えましたが、こういったプレゼンテーションとそれに対する質疑応答が続いて、二時間余りがあっという間に過ぎました。そのとき、ドアをノックする音がして、奥様が顔を出し、おっしゃいました。

「皆さん、お話はまだ続いていらっしゃいますか。一時になりました。お食事をなさいませんか。一休みされたほうがよろしいかと存じますが。」

私たちは、三人とも大きくうなずき、そうしましょうと申し上げました。奥様は、紘子さんとおっしゃり、趣味は絵を描くことだそうで、インドの街の風景や自然の風景を描くのが何よりの楽しみであると話されました。

運ばれた料理は、チキンカレーと豆のカレーをチャパティー(薄い麦のパン)で包んで頂くというものでした。サラダも一緒に出して下さいました。また、ラッシーと呼ばれる飲み物も添えてありましたが、わかりやすく言えば、飲みやすくしたヨーグルトというようなものでした。

そして食後にはコーヒーとグラブジャムンというインドのデザートがでました。甘いデザートに大喜びしたのがベアトリスです。甘いデザートとコーヒーは非常に相性が良いと感じました。

有島さん宅に三人が泊まる場所も確保されていました。これは、ひとえに鶴矢軟睦先輩の計らいであることが、あとで分かりました。

鶴矢先輩と有島さんは無二の親友で、事前に、有島さんに三人を頼むという要請を出していたことが判明した時、わたくしは細やかに配慮される鶴矢先輩に感謝の思いを抱かざるを得ませんでした。

ロンドンを出発する直前に、そうなっているということを一言も口に出されなかったのは、鶴矢先輩らしいやり方だったのかもしれませんが、おそらく、人生というものは、人と人との関係がこのように思いやりの溢れる関係であるならば、幸せな人生というべきであり、それがなければ、殺伐とした人間関係の中で、自分を守るだけで精一杯の寂しい人生になるのだろうと思いました。

お陰で、わたくしが滞在期間中の宿泊場所の確保のことで思い悩んでいた件は、有難くも、吹き飛んでしまいました。

こののちの三人の活動の展開を簡単に説明しますと、ラジャンは故郷へ有島さんの車で送ってもらい、家族と数日を過ごす中で、思わぬ展開を見ることになりました。それはほぼ奇跡といってよいくらいのラッキーな出来事であったと言ってよいでしょう。

どういうことかと言えば、ラジャスタン・テクニカル・ユニヴァーシティーで一緒に学んだガネシュ・シャルマと会いたいと思って連絡を取ったところ、何と、彼はインド政府の原子力委員会の研究開発部門の中にあるバーバ原子力研究センターに勤務していることが分かり、是非とも会いたいというラジャンの言葉に、即座に会おうと言ってくれたということでした。

ムンバイまで来なくていい、自分がジャイプルに行くからとも言ってくれ、家族にもちょっと会いたいからとその理由を明かしてくれました。

二人が会った時の、お互いの喜びと懐かしさはひとしおであり、ガネシュ・シャルマの家を訪ね、二人は数時間にわたり話し合ったということです。

世間に出ない情報の数々がガネシュの口から出て、いわゆる、これ以上ないヒューミント活動の成果をラジャンは獲得したことになりました。ラジャンを信じて、いろいろと話してくれた背景には、日本政府がインドの原発建設に関する情報を欲しがっているという点に、ガネシュが積極的に関心を示し、反応したことであったようです。

日本の技術の高さと精度に対する信頼を持っているとガネシュは語ったということでした。これほどの情報収集はないと言っていいピンポイントの人物を探し当て、その人物を通して成功を収めたヒューミントは、ラジャンをインドに送ることを決めた東京本社の判断が図星であったことを見事に裏付ける結果となりました。場外ホームランと言ってよいかもしれません。

ラジャンは、数時間にわたった話し合いの内容を、パソコンのワードで二十三ページに及ぶレポートにしたため、すぐにわたくしのほうへ送信してくれました。

ベアトリスはどういう動きをしたのか、彼女の動きを説明するには少し歴史的な解説を加える必要があります。と言いますのは、彼女の四代前の先祖であるリチャード・テイラー氏のことに関わるからです。

どういうことか。一八四六年から五八年まで、十二年間、インドで働いたというリチャード・テイラー氏は、ベアトリスの先祖ですが、彼が働いていた場所はインド北西部のグジャラートでした。

ラジャスタン州と接しており、ラジャスタンの南に位置する州で、アラビア海に出る長い海岸線が特徴として挙げられますが、二つの湾、すなわち、クッチ湾とカンバート湾に挟まれたカーティヤーワール半島に多くの人々が暮らしています。マハトマ・ガンディーの故郷であることでも知られています。

百数十年前、リチャードは、そのグジャラートの地で栽培された綿花を中国やイギリスへ輸出する業務に携わっていたという話です。

そのことは、テイラー家の人々から聞かされていたので、知っていましたが、ベアトリスがずっと疑問に思っていたのは、なぜ、リチャードはインドに渡ったのかということでした。テイラー家の人々もそのことについては何も話しませんでした。手掛かりになりそうなところ、すなわち、グジャラートへ一度、飛んでみなければならないと彼女は考えていました。

デリー空港からアフマダーバード空港へ飛んで、グジャラートの地を踏み、リチャードの面影を追いかける旅路が続きます。

彼女が真っ先に訪ねようと思った場所は、インターネットで調べておいたヴィクラム・サラバイ図書館でした。インド経営大学(IIMA)の図書館ですが、二十万冊の蔵書があるということで、何か先祖のことを知る手掛かりが得られないかと期待したのです。

受付で、リチャード・テイラーのことについて調べたいと思っていることを告げると、そこで不思議なことが起き、ベアトリスは、受付の女性の言葉に驚いたように耳を傾けました。

「リチャード・テイラーさんは、あなたの先祖で、インドに一八四六年から一八五八年まで滞在していたということですね。植民地支配の時代ですね。むしろ、そういうことは、大英図書館のインド省でこまかくわかると思います。ここと違って、あなたのお国のほうが古文書関係や歴史関係の資料は完璧に揃えてありますから。なにしろ、ここの二十万冊は、ロンドンの大英図書館の一三〇〇万冊の蔵書の足元にも及びません。

でも・・・、ちょっと待ってください。何だか聞いたことのある名前ですね。ポピュラーな名前のようですから、同じ名前の人がたくさんいらっしゃると思いますが・・・。

ああ、そう言えば、私のおじさんがよく、リチャード・テイラー、リチャード・テイラーという名前を繰り返し、言っていたことを思い出しましたが、まさか、おじが言っていた人物の名前が、あなたの先祖のその人と関係があるなんてないわね。あなたの先祖は一五〇年以上も前で、時代が古いですし・・・。」

「えっ、何ですって。そのおじさんは現在どこにいらっしゃるのですか。会ってみたいわ。まさかの偶然が、もしかしたら・・・。」

「以前は、ここのアフマダーバードが州都で、この街に、おじは事務所を置いていたのですが、現在は、ガンディーナガルに州都が移って、おじも、今、そこで建築設計事務所を開いています。」

「あなたのおじさんを訪ねたいと思います。おじさんに連絡してもらえますか。」

不思議なことになりそうな予感が激しく襲ってきたことを、あとで、ベアトリスは報告してくれたのですが、いくら何でも、あり得ないと思ったそのまさかが起きたのでした。

ベアトリスは、図書館の受付の女性が即座にガンディーナガルのおじに連絡を取ってくれたので、そのおじさんの建築設計事務所へとタクシーで向かいました。

アフマダーバードから北東へ30キロメートルあまり行くと、ガンディーナガルの街へ入ります。「フォーチュン・イン・ハヴェッリ」というホテルの近くに彼の事務所があるので、そのホテルのところまで来てほしいという指示に従ってホテルに着きました。

ベアトリスは、ロビーで立ったまま人を待っている風の六十歳代くらいの男性を見て、すぐに図書館の受付嬢のおじと分かりました。

「やあ、あなたにお会い出来てとても嬉しいです。バラヴァン・シンと申します。姪のハンシニから連絡をいただきましたが、あなたがベアトリスさんですね。私が口にいつも出していたリチャード・テイラーさんはあなたの先祖に間違いありません。」

こちらがまだお返しのあいさつもしないうちに、自身のあいさつに次いで、リチャード・テイラーはベアトリスの先祖であると突然に断言するバラヴァン・シン氏の言葉に、ベアトリスは面食らってしまいましたが、その終始笑みを浮かべた好意的な表情に強く引き付けられるものを感じて、おもわず泣き出しそうになりました。バラヴァン・シン氏を通して、先祖のリチャードに会っているかのような錯覚を覚えたのです。

「ベアトリス・テイラーです。リチャードが私の先祖であると確信される根拠を聞かせてください。リチャードのことをもっと深く知りたいのです。」

「あそこのコーヒー・ラウンジのところでゆっくりとお話いたしましょう。」

こうして、ベアトリス・テイラーとバラヴァン・シンの歴史的対談ともいうべき舞台が整えられたのです。

掻い摘んで申し上げますと、リチャード・テイラーの下で秘書をしていたのが、バラヴァン・シン氏のやはり四代前の先祖、ナヤカン・シン氏であったということです。

ナヤカンは、多くの英国人を見てきたが、リチャードについて、これほど立派な英国人はいないと家族の者たちにいつも語っていたそうです。

インドに渡る前から、リチャードは英国でサンスクリット語をひそかに独学で学び、「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」の古代インドの叙事詩をインドで研究したいと思い、綿花の貿易業務に携わりながら、それ以外のすべての時間を研究に注いでいたということが分かってきました。

研究論文を三冊書いたそうですが、直筆の一冊をリチャードはナヤカンにプレゼントしました。それがナン家の家宝として、大切に所蔵されているもので、バラヴァンはその本を是非ともベアトリスに見せたいと思い、持参してきていました。

そのリチャードの直筆の本を見た瞬間、そこから光が放たれているような感じがして、ベアトリスの目から涙が溢れてきました。

流麗な、見事というしかないリチャードのカリグラフィー(筆跡)です。紀元前四、五世紀頃からのインドの古い物語を、紀元三世紀から四、五世紀にかけて最終的に編纂し、完成させたと思われるサンスクリット語の一大叙事詩の世界にリチャードの身と心は心酔していたのです。

よく分からなかった先祖のリチャードの実像がくっきりと浮かび上がってきました。この出来事を通じて、今回のインド来訪は、リチャードの霊が自分を呼んでくれたのだとベアトリスは強く確信しました。

嬉しかったのは、バラヴァン・シン氏が記念にと、その本の表紙から中身に至るまで、一六八ページの全頁をコピーして渡してくれたことでした。それもまた、リチャードがベアトリスに大切なプレゼントを渡してくれているような気がしたとベアトリスは語っています。

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