見出し画像

ハイドンとモーツァルト


18世紀中葉から19世紀初頭を飾る古典派音楽は、オーストリアのウィーンを中心として隆盛を極めた。ハイドンとモーツァルトは非常に対照的な個性を持ちながら、二人の友情は深く、お互いに敬愛の情を抱いていた。

モーツァルトは早熟の天才、ハイドンは晩成型の大器といった違い、また、繊細なモーツァルトと大らかなハイドンというようなその音楽性の違いは際立っている。にもかかわらず、二人の親交は有名で、モーツァルトの遺児であるカールが音楽の道を目指そうとしたとき、いろいろと面倒を見たのが優しい心の持ち主のハイドンである。

ハイドンは生涯で108曲の交響曲を書くなど、まさに「交響曲の父」と呼ばれるに相応しい交響曲の名手であった。オラトリオ(聖譚曲)であるハイドンの有名な『天地創造』などを聴いていると、伸びやかで壮大な曲調が迫ってくる。

一方、モーツァルトの有名な『交響曲第40番』を聴くと、ハイドンのものとは大きく異なる調べであり、繊細優美、流麗無比の流れるような女性美の輝きが感じられる。お互いにないものを持っていたハイドンとモーツァルトであったからこそ深い友情で結ばれたのかもしれない。

評論家の小林秀雄が、その名著『モーツァルト』の中で、「モーツァルトの音楽には心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。ひとたびこの内的な感覚を呼び覚まされ、魂の揺らぐのを覚えた者は、もうモーツァルトを離れられぬ」と書いているが、小林秀雄もモーツァルト音楽に魅せられた者の一人であった。

モーツァルトは妻コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、二人の男の子が生き残っただけで、その当時は幼児の生存率が非常に低い時代でもあった。オペラでは『魔笛』など、不動の名声を誇る作品を書いているが、35歳という早逝は余りにも惜しまれる天才の死であったと言わざるを得ない。

古典派音楽の大家ベートーベンの生まれた家庭は、父も母も宮廷歌手という家柄であったので、当然、音楽的環境が備わっていた。しかし、母の死と父の失職という逆境の中で、父と兄弟たちを養っていかざるを得ない辛い人生を若くして負うという運命を余儀なくされたのである。

ベートーベンもまた、ハイドンとの接点を持った音楽家の一人であり、1792年22歳の時、ハイドンのところへ弟子入りしている。古典派音楽の三人、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンは深い因縁で結ばれていたのかもしれない。

ベートーベンの人生最大の試練は難聴、そして失聴という音楽家に致命的な肉体上の障害である。20代半ばにして耳が難聴に陥るという事態は、彼を自殺の淵にまで追い込んだ深刻な病であった。40歳の頃には完全に音のない失聴世界に彼はいたのである。

にもかかわらず、その過酷な運命を克服してベートーベンは曲作りに没頭した。失聴してからの作品に多くの名作があることには驚かされる。彼の人生を考えれば、起伏の激しい運命のいたずらにも負けず、疾風怒濤の如く突き進んだ生き様であったから、その音楽からは喜び、悲しみ、悲哀、落胆、希望、前進、あらゆる感情のうねりが伝わってくる。

『交響曲第9番』の雄壮な調べ、希望と歓喜へ向かって人生の苦悩を突き破っていく壮麗な曲調に聴き入ると、生きる希望が沸々と湧き出てくるのを感じざるを得ない。

ベートーベンの三大ピアノソナタは余りにもよく知られているが、『第8番悲愴』、『第14番月光』、『第23番熱情』のそれぞれが、感情豊かな表現のピアノ作品になっている。このような豊かな感情表現は、次のロマン派音楽の扉を開く先駆的な役割をベートーベンが担っていたと言えるだろう。

1789年のフランス革命によるヨーロッパの激動が、古典派音楽に少なからぬ影響を残した。ハイドンもベートーベンもフランス革命の時代を生き抜いた作曲家たちであるが、例えば、ウィーンがナポレオンに占領された1809年、その時に作曲されたのが、ベートーベンの『ピアノ協奏曲第5番』(『皇帝』)である。

『皇帝』の名称が与えられているが、それが、ナポレオンを意味しているかどうかは明確でないとしても、とにかく、古典派の時代が終わろうとする頃の時代が感情の起伏を引き起こしていた時代であるのは確かなようである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?