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ストラヴィンスキー


20世紀を代表する作曲家と言えば、一体、誰になるだろうか。いろいろと考えることができるが、ぼくは、真っ先に、ストラヴィンスキーを思い浮かべる。

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)が書いたバレエ音楽「火の鳥」(1910年初演、演奏時間約48分)は、その台本に2つのロシアの民話が用いられており、「イワン王子と火の鳥と灰色狼」「ひとりでに鳴るグースリ」の話が巧みに組み合わされたバレエ音楽で、ストラヴィンスキー28歳のときの作品になる。

手塚治虫氏が「ぼくはある劇場で、ストラヴィンスキーの有名なバレエ「火の鳥」を観ました。バレエそのものももちろんであったが、なかでプリマバレリーナとして踊りまくる火の鳥の精の魅力にすっかりまいってしまいました」と告白しているように、彼はバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の「火の鳥」から漫画「火の鳥」の着想を得ていたのである。

ストラヴィンスキーは、「火の鳥」の成功を機に、「ペトルーシュカ」(1911年)、「春の祭典」(1914年)の3つのバレエ音楽を世に送り出し、彼の名は不動のものとなる。

いずれも西洋音楽にはないロシアの魂(原始主義)の響きみたいなものがみなぎっており、バレエ音楽の新時代を開いたと言ってもよいだろう。「春の祭典」が上演されたとき、パリのバレエ・ファンたちは賛否渦巻く大混乱を起こしたことは、語り草になっている。

ストラヴィンスキーは、ロシア帝国のペテルブルクの近郊(現 ロモノソフ)に生れた。1902年(20歳)、ペテルブルク大学法学部に入学するが、学業に真剣に取り組んだ形跡はない。彼の関心は別のところにあった。

ストラヴィンスキーは、リムスキー=コルサコフ(1844-1908)を師として、音楽の道へと進む。1914年(32歳)、第一次世界大戦の勃発を機にスイスに亡命、そこに居を構えた。1934年(52歳)には、フランス国籍を取得する。ストラヴィンスキーの生涯は、フランスとの強い親和性を示している。

1939年(57歳)、第二次世界大戦の戦火がヨーロッパを包み始めたころ、米国のハーバード大学の招きで渡米、「音楽の詩学」と題する6回の講義を行った。そしてそのまま、米国に留まり、ハリウッドに住んだ。1945年(63歳)には、アメリカ合衆国の市民権を取得する。

このように、ロシア、スイス、フランス、アメリカと、転々とする人生を送るが、彼の音楽もまた、多様な変化を示し、変幻自在の音楽世界を創出するのである。進歩主義的で、新しいものを開拓する創造性の高いストラヴィンスキーは、多くのジャンルを逍遥する。

バレエ音楽、オペラ、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲、歌曲、編曲作品など、原始主義、新古典主義、セリー主義(12音技法)などによって、色彩的なオーケストレーションを展開する巨匠であり、多産な作曲家であると言える。

初期の原始主義の3つのバレエ音楽「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」は、彼の代表作であるが、バレエ音楽も、1920年の「プルチネルラ」を聴くと、大きく変化し、新古典主義と言われる傾向に進んでいることが分かる。1927年には、新古典主義のオペラ「エディプス王」を、友人のジャン・コクトーの協力を得て完成させ、世に送り出した。

新古典主義の傾倒の中で、ストラヴィンスキーは詩篇交響曲(1930年)を作曲する。詩篇という言葉が冠せられている通り、非常に宗教的な曲である。交響曲というより、詩篇の歌唱を交響化したアンサンブルと言った方がよいだろう。

ストラヴィンスキーの初婚は、いとこのカテリン・ノセンコで、再婚はヴェラ・ド・ボッス(画家)である。最初の妻カテリンは一歳年上のいとこである。幼いころから兄弟姉妹同然で育ち、結ばれるのも当然と思っていたようだが、ストラヴィンスキーの大学卒業の前年に婚約し、翌年に結婚する。ストラヴィンスキー24歳のときである。

カテリンは病弱で、ストラヴィンスキーは、1939年に妻と娘(共に結核)を失い、さらに母親を亡くした後、アメリカに渡り、1940年に再婚したのが、ヴェラである。ヴェラは画家であったが、ストラヴィンスキーと再婚する二カ月前に夫と離婚している。

二人は鳥や花、ペットや絵画の趣味が合い、互いに実に几帳面だった点などで、性格が一致しており、幸せな結婚生活を送った。自分の部屋から出てくるとすぐに「ヴェラは何処だ」と尋ね、絵を描いていることを聞いて安心したと言う。

晩年の30年間をヴェラと共に過ごしたストラヴィンスキーは、1971年、88歳で往生し、その11年後の1982年、93歳でヴェラもあの世に旅立った。

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