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幸運と不運の検証

「運は自分次第!」という本がミリオンセラーになったと思えば、「親は運ゲー」という言葉が流行ったりもする。

私の夫は自称「ラッキー教」である。出会ったときから「俺は強運だから」と言っていたが、私と結婚する紆余曲折の中でホームレスになったり人に刺されかけたり肺気胸で肺を切ったりしていて、それでも「俺はめちゃくちゃ強運」と譲らなかった。

私の母は娘から見る限りなかなかの苦労人で、でもその苦境を自らの意思と能力でありえないような突破をしてきた。当の本人は「私はほんまに苦労してへんからなあ、恵まれすぎてるから、世の中の大変な人たち見てると私なんかなんも言えんのよ」と言う。父はそんな母にベタ惚れなので「生まれ変わっても母さんと結婚したい」と以前酔った勢いで言っていて、この人たちの人生は最高だなあと思っている。

そして今の私は、自分のことをハイパー強運だと思っている。同時に、過去の出来事などを普通にするとほとんどの人にかなりギョッとされる。少なくともSNSには書けない話ばかりで、私にとってはそれも全てが糧なのだけど、そこには人の命や殺意や憎しみや暴力、あらゆるものが関与していて、でも私は結果今幸せだし、生きている。それだけでも充分に強運なのだと思う。

友人にも、なかなかな境遇の人が何人かいる。よくそれでグレずに犯罪犯さなかったね、と思う。同じ境遇で裏社会に行くしかなくなった人たちもいるのに、なぜだろうと思うけど、決まってみんな「私は出会いに恵まれたし運がよかっただけだ」と言う。

運ってなんだろう。私や愛する人が明日死ぬかもしれないことも運なのだとしたら、どれだけ強運だと言ってもそれは生きてる間のことで、生き死には神の采配としか言いようがないし、死んだあの人やあの子のことを思うときに「あいつは運が無かった」とは思いたくない。思えない。みんなめちゃくちゃ一生懸命生きていたから。

ただ、現状生きている人間において、自分の意思で「この人生は幸運だ」とすることは、誰しもが可能なのかもしれないとも思う。

それは毎日の出来事一つとっても、

「こんな嫌なことをされたから不運」

とも思うのか、

「それによって自分を省みて、より良くなれたから幸運」

と思うのか、

そんな選択肢の積み重ねなのかもしれない。

起こった出来事を多角的に見るのは知性だし、楽観的に見るのは才能だし、現実をどう捉えるかの能力そのものが運なのだとしたら、それはやはり生まれたときから決まっているのだろうか?そんな悲しいことがあるのだろうか?

だから本当の意味での幸運、不運について私はやっぱり分からない。やはり神のみぞ知るような気もする。

ただ、私の好きな人たちがみなこぞって、どんな鬼畜な境遇を経験してきても「私はラッキーだからなー」と言っている(他者から見たらそうは思えなくても)という事実を、私は信じている、いや、信じたいのかもしれない。

自分が幸運か不運かは、まだ生きている自分が決めたとこから始まるのだと私は体現したいし、それが出会う人々の潜在的なラッキーに作用したらなおのことラッキーだなと思っている。

追記:バナー画像のカマキリは、夫がうっかり踏みかけたところを間一髪気づき、「こんなとこにいたら絶対踏まれる!」と助け出された。しかしもう体が弱っていたので、「いっそラクにしてくれ!」と思っていたかどうかはカマキリしか分からない。でも、間一髪踏まれず、カマキリを愛する人に植木に運んでもらえてめちゃくちゃラッキーなカマキリだったのかもしれない。

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